みなさん、こんにちは。ライター塾7期生の松山です。福岡もやっと夏が終わりを告げようとしています。これから秋の気配が少しずつ日々の中に混ざりこんできますね。いろんな秋を見つけに行けたらいいなと思っています。さて、思えば私がこの連載の原稿を書き始めたのは、2021年12月のことでした。まだ主人がお空に召されて3ヶ月と少しぐらいの頃。それから書いては消すことを繰り返して、ようやく第1回を掲載していただいたのが、2022年の5月のことでした。その第一回の掲載から、2年と5か月が過ぎようとしています。先日久しぶりに、第1回から読み返してみたら、ずいぶんと沢山のことを書かせていただいたと思えました。そろそろまとめに入ろうと思います。今回と次回(次回が最終回です。)あともう少しだけおつきあいいただけたら嬉しいです。

建築中に「MOKUBA」と名付けた我が家です。私達家族にとっては、いつだって家族の一員のような存在でした。外界の全てのことから守ってくれる聖域のような存在でもあって、今日も相変わらず私と息子ちんを見守ってくれています。
本当の幸福に近づく椅子
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なにが しあわせか わからないです
ほんとうにどんなつらいことでも
それが ただしいみちを進む中でのできごとなら
峠の上り下りもみんな
ほんとうの幸福にちかづく 一足ずつですから
( 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」より )
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私の大好きな宮沢賢治さんの物語の一節です。いつ読んでも、何度読んでも、親しみを覚えてしまって、心がじんわりします。
人が何かの「渦中」にいる時というのは、自分がどんな景色の中を歩いているのかが、なかなか掴めません。それは多分目の前のことに反応したり対応するだけで精一杯だから。ましてや、その先の向こう側にあるものなんて分からないなまま歩いています。でも、その「渦中」が終わった時、まるで急に自分の目が、解像度の上がったカメラにでもなったかのように、歩いてきたその道のりの景色を、鮮やかに見渡せる瞬間がやってきます。それはそれまでのこと全てが、過不足なく染み込んでいるような、いわば人生という名の景色です。
ひょっとしたら過去の出来事は、その先の未来になってはじめて、ちゃんとした答え合わせをしてもらえるのかもしれません。私の場合も、パパがお空に行った後になってはじめて、「私達はこれで良かったんだね」と、過去の道のりを、やっと穏やかな気持ちで肯定できた気がします。
そして過去の景色がそう思わせてくれたからこそ、今の私は、過去に感謝しながら生きることができています。そんな気持ちもまた、一生懸命生きた先にしかないものでした。
「本当の幸せって何だろう?」
誰もが一度は考えたことがあると思います。
本当は頭で考えなくても、ふんわりと心が幸せを感じれたなら、もうそれは確かな幸せです。
ただ、無条件でそんな幸せな気持ちになれないような時、例えば、とても大変だったり悲しかったり、後悔の念が消えなかったり・・・そんな究極に苦しくなった時にも、私には「本当の幸せ」が一つずつ鮮明に分かっていく瞬間がありました。それは大変な時だからこそ浮き彫りになるような、無駄なものを削ぎ落とした「真の幸い」でした。
幸せな方の椅子を選ぶたびに、「どちらが幸せだろう」と考える。そう考える過程自体に、幸せへのヒントが、ふんだんに含まれていった気がします。だから私は時に苦しかったはずなのに、「やっぱり幸せだったよね」と思えているのかもしれません。
「峠の上りも下りもみんな幸福に近づく道」
満月の夜の月明かりのように、心を輝らしてくれる言葉というものがあります。私にとっては、宮沢賢治さんのこの言葉が、きっとそんな宝石のような言葉です。
この本の注文履歴が残っていて、おそらく2020年の夏頃の私が、この言葉のページに貼ったであろう付箋も残っていました。4年前の私がこの付箋を貼ったとしたら、時期的に、夫がかなり厳しい状態に入った頃でした。そう思うと、胸が一瞬苦しくもなりましたが、その後すぐに暖かくもなりました。それは、幸せな方の椅子を選ぶことが、どんどん難しくなってきたことを、世界中の誰よりも感じていた4年前の私が、それでも心を強くもって、この付箋を貼った気がしたからでした。きっと私の「幸せな方の椅子を選ぶ」というそれまでの生き方を、ぎりぎりのタイミングで肯定してくれたのがこのページでした。そこに貼られた付箋にそっと触れた時、今度は鼻の奥がツーンとしました。過去の私と手をつなげた気がしました。
「過去」と「今」と「未来」
主人が病気になってから、私は「過去」「今」「未来」という3つの時間軸を、とても意識するようになりました。
まず彼が病気になったばかりの頃は、幸せな方の椅子を選ぶ時には、過去を見ないようにして、とにかく「今」に集中しようと思っていました。そしてだんだん「今」に集中できるようになると、今度はその今を、もう二度と未来で「後悔したくない」と思うようになりました。過去の自分を責めたり否定したりするのは、もうたくさんでした。例えば「パパの病気にどうしてもっと早く気づいてあげれなかったんだろう」というような、大切な人の命にも関わるほどの大きな後悔というものには、気が狂いそうになるほどの辛さが内包されてしまうからでした。「後悔しないように」なんて言う人は、だいたい自分がひどく後悔したことのある人なのかもしれません。
そんな風にひどく後悔したことのある私は、今度こそ、なるべく未来へしこりを残さないようにと、以前よりも随分と大胆に、かつスピーディに、いろんな選択や決断ができるようになったというか、多分、後悔することへの「恐怖」みたいなものが脳の髄まで染みこんでしまったせいで、自然とそうするほかありませんでした。もちろん生きていれば、後悔することがなくなるなんてことは、まずありません。後悔がない人生なんて逆におかしい気もします。それでも「後悔しない方を選ぶ」。そんなマイルールを盾にしたら、私は少しずつ「今」に心を寄せて、精一杯の力で生きることができるようになりました。
過去は愛することができていて、未来も人が言うようにいつか愛せるのかもしれない。でも、今を愛せそうにない時は、とてもきついかもしれないけれど、とりあえず後悔しない方を選んでいく。
そんな風にしていけば、峠の上り下りもみんな「ほんとうの幸福にちかづく道」だったと思える日が、いつか必ずくるのかなと思います。
過去への想い
最初から、この連載を読み返してみると、連載に書いた椅子達はみな、私が極限まで追い詰められたり、限界点に達しそうな時であったり、心がどんどん弱っていた時だったり・・・もしくは、そんなところから這い上がったものの、まだ心についた傷が生々しく残っているような、そんな時に見つけたものばかりです。
第12回の「優しい椅子」は別として、穏やかな時に見つけた椅子はとても少ない。そして、主人が病を得た2011年~再発した2012年という、ほんの2年間の間に見つけた椅子達が8割がたを占めています。その頃はまだ、私が37歳とか38歳だった頃。今よりも随分と精神的にも若く、自分の選んだ道が正しいのかさえも分かってませんでした。
なのに、そんな水の上を歩くような不安定な頃に生まれた椅子達の方が、今でも頼れる安定した椅子になっているのが、おもしろいなと思うのです。きっと人生って、やっぱりそういうことなのかもしれません。
2024年を生きている今の私はというと、嘘のように大きな悩みもなくて、あの頃に比べれば何もかもが安定している毎日です。日々の生活自体は主人が生きていた頃を通り越して、彼が病気になる2011年よりも前に戻りつつあるのを感じることもあります。それは何よりも健やかな幸せなことで、その幸せの意味を、彼が病を得る前よりもずっとずっと深く感じます。
ただそれと同時に、過去の私が必死に生きながら拾い集めたものが、私の中に過不足なく埋め込められているのも感じます。生活は過去に戻ったように見えても、私の心の中身は、もうきっと主人が病気になる前の心ではない。もし、またこれから何かあっても、その私に埋め込まれている過去のカケラが力になってくれる。時に苦しかったけれど、それでも頑張った過去がある。それをほんの少しの自分の自負にしてもいいのかもしれないと、やっとこさ思えるようになりました。その気持ちが、過去の経験からもらえるギフトなのだとすれば、そんな力をくれる過去に、やっぱり私は、そっとお礼を言いたくなります。
そして過去の私へは・・・
「多分あなたが懸命に生きてくれたおかげでね、なんだか良くわかんないんだけど、今の私の毎日はすごく穏やかで優しいよ。毎日いろんなことにちゃんと幸せも感じてるよ。それに息子ちんもね、なんだかねえ・・・うま~いこと育ったよ!」
と、言ってあげれたらなと思うのです。だって、未来でなるべく後悔しないようにと、過去の私はなんとかギリギリのところで頑張ってくれていたのだから。過去の私が幾度となく繰り返した幸せな方の選択の答えが、今のこの穏やかな毎日や、私の心に日々生まれてくる優しい気持ちに繋がってる。そんなことを、あの頃は未来だったはずの今、私は毎日思いながら生きています。
そして、もう1人こっそりと、ううん、本当は世界中に叫びたいぐらい、盛大にお礼を言いたいのは、実は息子ちんなのです。いつもニコニコ強くて優しくて、そしてあなたはどんな時も決して折れなかったよね(少なくとも私とパパの前ではね)。まだほんの小さかった頃から、いつだってとびきりの笑顔で力になろうとしてくれたから、かかはね、いつも一瞬で優しい気持ちに戻れたんだよ。それに、あなたを心配しようとしても、なぜか逆に安心させられてしまうことの方が多かった。でも・・・あなたが折れなかったのは、パパとかかの為でもあったのかな? 折れない人というのは、必ずその前に何かしらの思考があるはず。きっと私の見えないところで何度も、「折れない為の折り合い」を、あなたなりにつけていたのかもしれないね。それがね、やっと最近分かったの。気づくのがこんなにも遅くなってごめんね。本当にありがとう。
あなただけの椅子
実は、私は主人の病気の詳細を、主人の闘病中は、ほとんど周りに伝えていませんでした。自分の両親、弟や妹にさえ、本当の病名を伝えたのは、随分後になってのことでした。それはいろんな理由が絡み合ってのことではあったのですが、その分私は、まわりに自分の心の痛みに対しての助けを求めたことが、実はほとんどなかったように思います。だからでしょうか、自分を自分で助ける為に、その時の自分に1番必要だった椅子を、私はひねり出すしかなかったのかもしれません。今までに紹介した椅子達は全部、あの頃の私に一番必要だった椅子でした。そう、言わば、私の為に私がオーダーメイドした「私用の椅子」なのです。
第12回のような「優しい椅子」は、自分以外の誰かの為にも、そっと差し出すことのできる暖かな椅子だと思います。だけど自分用の「幸せな方の椅子」というのは、きっと自分にしか用意できない。自分に本当に必要な椅子は、多分自分が一番良く分かるはず。だから、呑み込めないぐらい苦しいことが起こった時には、目を閉じて、自分の本当の気持ちの在りかへ、ぐっと心を寄せてみてください。そしてその時の自分の心に1番必要な椅子を探してみてください。それはきっとあなただからできることで、あなたにしかできないことです。
それでは念のため?!
最後に、第1回で書いた、この連載で私が、いちば〜ん!皆さんにお伝えしたかった言葉のおさらいをします!
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「幸せな方の椅子」
たとえば、心が負のものでゆさぶられている時
悲しみや痛みで身動きが全くとれず、息をするのも苦しいような時でさえ
いったん、心をしーんとなるまで止めてみる
どんなときでも、目の前に「幸せな方の椅子」と「幸せじゃない方の椅子」が置かれているとしたら?
さあ、あなたは どちらに座りますか?
目を開けたその時に、あなたの心が一番欲している「あなただけの椅子」が、どうかそこにありますように・・・
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今回も最後まで読んでくださってありがとうございました!次回がいよいよ最終回になります。実は連載を書き始めた時に、最後に書こうと決めていたことがあります。頑張って書いていますので、どうかお楽しみに♪
家族旅行で行った、大分県の湯布院にて。また行きたいな〜。「息子ちん・・・一生のお願い!!」って言ってもだめかな~(笑)