この連載「わたしのサードプレイスの見つけ方」は、今いる場所ではない、もうひとつの場所=サードプレイスを見つけて、扉の開け方を紐解くお話。
今いる場所に大きな不満はないけれど息苦しさを感じている人や、ひとりでがんばりすぎて苦しくなっている人にとって、自分の居場所を見つけるヒントになりますように。
現在はライフコーチとして活動していますが、3年前までは小学校の教員をしていました。
教員時代は、毎朝4時起床。早朝から、前日終わらなかった家事と持ち帰った仕事をこなし、7時には家族で一番早く家を出て、そのあとのことは夫に丸投げ。夕方は、延長保育終了時間ぎりぎりに滑り込んで7時半ぐらいに帰宅する日々でした。
学校では、受け持っていた子どもたちに「大丈夫だよ。待ってるからね。」と笑顔で優しく声をかけるのに、家ではいつもイライラ。「しゃべらないで早くして!」と、鬼の形相…。
「教員」として外に見せている自分と、「母」としての内側の自分が大きく乖離していることにもやもやしながらも、「今はとにかく、目の前のことをこなすしかないのだからしかたない」と誰にも弱音を吐けませんでした。
第三子育休中、新型コロナウィルスのパンデミックが起こりました。緊急事態宣言が明け、小学校が再開して1ヶ月ほどたったころ、長男のクラスで学級崩壊が起こっていることに気づきます。
子どもたちが平等に守られ楽しく学べる場であり、思いを持って働いてきた「学校」という場で、我が子や子どもたち、先生が苦しむ姿を見るのはとても辛いことでした。
スクールカウンセラーに相談してクラスの様子を見にいってもらったり、担任の先生や学校との面談を重ねたりしたものの、意思疎通がうまくいかず、一向に状況が改善しないことに学校への不信感や不安が募っていきました。その中で、先生の口から出る子どもへの心ない言葉に大きなショックを受けます。
何より落ち込んだのは、その時の自分自身の態度でした。怒りをぶつけてもよかったのに、「あそこの親、教員なのに」と言われないように、何があっても動じない「落ち着いたお母さん」像を演じた自分が情けなくてたまりませんでした。子どものことを守るふりをして、結局自分のことを守っているだけなのかもしれない……。そう自己嫌悪に陥った出来事でした。
この出来事をきっかけに、「私はいったい何を大切にしたいんだろう」「私の生き方はこれでいいのかな?」と自分がわからなくなりました。
「これまでもそれなりに色んなことを乗り越えてきたんだし、今回も時間が解決してくれるでしょ」と、いったんは現実から目をそらそうとしたけれど、理不尽でつらい出来事は続き……苦しさは増すばかり。
ある日、家族みんなで食卓を囲んで夕食を食べている時、涙が溢れ止まらなくなってしまったことがありました。家族で食事する時くらい、つらいことやしんどいことを一旦横に置いて、何気ない会話をしながら楽しく食べたいと思っているのに、頭の中では不安や怒り、悲しみや悔しさといった感情がぐるぐると渦巻いてはなれない。ついに、キャパオーバーな状態になり溢れてしまったのだと思います。
「このまま向き合わなかったら、きっと一生後悔する」とやっと気づいた私。それまで仕事と子ども3人の育児に必死で走り続けてきた足を止め、自分自身にじっくり向き合うと決めました。
自分に向き合うといっても、いったい何から始めたらいいかわかりませんよね。
私が選んだのは主に2つの方法です。ひとつは「人に話を聞いてもらう」こと。そして、もう一つは子どもの頃からの自分の人生をふりかえってノートに書き出してみることでした。
どこで生まれ、どこに住んでいて、どんな自分だったか。
何が好きで、どんな友だちがいたか。
家族の状況はどうだったか、自分が何を感じていたのか。
ゆっくりと記憶を呼び起こしながら過去と今をつなげていく作業です。
思い出せないこともたくさんありました。思い出せない部分は、昔の写真を引っ張り出したり、両親や友だちに話を聞いてみたり、とにかくやれるだけやってみました。それくらい自分を取り戻したくて必死だったんだと思います。
やってみた中で、シンプルだけど一番気づきが大きかったのが「ライフラインチャート」というワークです。
自分を知るため、色んな本を読んだり、心理学や自己理解をテーマにした講座や講演を聞いたりしている時に知りました。ライフラインチャートとは、これまでの人生を、満足度という尺度で一本の曲線で表現し見える化したもの。厚生労働省のHPの「雇用・労働」の項目の中でも、人生後半戦のライフ・キャリアシートの一つとして紹介されています。
チャートが上がり下がりしている部分は、経験・エピソードや、出会った人、本、映画など影響を受けたと感じるものを書き込んでいきました。
私はこの作業を「人生の棚おろし」と呼んでいます。
記憶の箱の蓋を開け、ひとつひとつ手に取り中身を点検し、紙に書き出して自分の目で確認する。まさに商品を棚卸しするように自分の人生の出来事をふりかえる作業です。
その作業を通して見えてきたのが、幼い頃のわたしにとってのサードプレイスの存在でした。
夏になると北九州にある母方の実家に帰省していました。
祖父母が住んでいたのは、何棟も同じ建物が並ぶ大きな団地のようなマンション。敷地内には、住民用の小さな子ども用のプールがありました。私はこのプールに祖父母と遊びに行くのが大好きでした。
夏休みの最初の週末に家族で帰省。数日を過ごし、さぁ長崎に戻ろうと両親が支度をしていると急に「帰らない!」と泣き始めたそうです。
自営業をしていて仕事があり、大家族の嫁でもある母は、娘と一緒に実家に残るわけにはいかず、大泣きしながら動こうとしない娘にとても手こずったそう。結局、泣き続ける私と困りはてる母を見かねて、祖父母が「いていいよ」と言ってくれて、夏休みの間、1人で祖父母の家で過ごすことになりました。当時の私は4歳。
母からこの話を聞いたときは正直びっくりしました。ずっと大人の顔色を伺ってばかりいたと思っていたのに、4歳の私はすいぶん自分の意思を主張できる子どもだったんだなって。
母の話には続きがありました。
「あの頃、弟が生まれてちょっとした反抗期やったんよ。」と。
前の年に4歳離れた弟が生まれました。長男である父に息子が産まれたことで実家は大フィーバー。両親はもちろん、祖父母や同居していた叔父や叔母たちから一身に注目を浴び続ける弟を見て、4歳のわたしはへそを曲げていたそう。
そんな状況の中、帰省した母の実家では、おじいちゃんおばあちゃんを独り占め。朝からプール、帰って来たら畑で野菜の収穫、お絵かき…私がやりたいことを一緒に楽しんでくれて、「すごいね!上手ね〜」とほめてくれる。何より、顔を見て「うんうん」と話を聞いて頷いてくれるのが、4歳の私にはうれしくてたまらなかったのでしょう。
自分の存在をまるごと肯定してくれる人、話を聞いてくれる人がいるとほっと安らげたり、安心できる。4歳の時から、わたしはサードプレイスを見つけていたんです。すでに祖父母は亡くなっていてもう会うことはできないけれど、2人と過ごした夏の記憶は、今もわたしのお守りになっています。
これまでの人生をノートに書き出していく作業を淡々と繰り返しているうちに、ふと心が軽くなっているのを感じました。目の前の辛くしんどい現実は、それほど大きく変わっていないのになぜだろう……?
その頃のわたしは、寝ても覚めても子どもや先生、学校など、自分以外の人のことで頭がいっぱいでした。「どうして?」「なぜそんなことが起きるの?」と、常にぐるぐる答えの出ない問いを考え続けてヘトヘトでした。自分ががんばっても変えられない他人のことばかりに、時間もエネルギーも奪われてしまっていたんです。
悩みや苦しさを抱えているときは、ぎゅーっと視界が狭くなりがち。
ノートに書くという今までにない選択は、自分以外の人のことでいっぱいになっていた世界から一歩外に出て、誰かの眼に映る自分ではなく、自分のために自分について考える時間へと連れて行ってくれました。
手を動かして書き、頭の中にあった記憶や自分の感情を見える化することで、客観的に自分を見る新たな視点が生まれ、少しずつ自分が自分に心を開きはじめたのだと思います。
紙の上は自由で安全です。誰に見せるわけでもない自分のノートには何を書いても大丈夫。
ノートをひらけば、いつでも自分について考える時間にパチンとスイッチを切り替えることができます。どこか特別な場所に行かなくても、自分のノート=サードプレイスはいつでも好きな時に用意できると気がつけたことは、わたしにとって大きな収穫でした。
次回は、居場所の選択肢の見つけ方を書こうと思います。
まとめ
サードプレイスは自分の中にみつかる
紙の上は自由で安全
頭でぐるぐると考えて苦しくなっている時は
ノートが自分だけの居場所になってくれる