Î皆さん、こんにちは。ライター塾7期生の松山です。新緑が眩しい季節ですね。皆さんいかがおすごしでしょうか。私の住む福岡は、昼間はもう真夏のような日差しですが、夕刻からの風がとても心地良く、多分一年で一番、柔らかくて優しい風が、部屋を通り抜けていきます。今回から第5章に入ります。お時間がある時に、読んでいただけたら幸せです。
優しい椅子までの道のり
息子が小学校を卒業する頃に、5年生存率に入った主人は、その後も慎重に小さな奇跡を積み重ねながら、余命を少しずつ覆していきました。
そして令和元年の桜の花びらが舞う日。
私と主人は、自分達が青春時代を過ごした高校の体育館にいました。ちょうど30年前の平成元年に、私達夫婦が出会った同じ高校へ進学する息子ちんの入学式の為でした。
式が終わって移動した教室で、息子の背景を、風で巻き上げられた桜の花びらが、ゆったりと流れていく景色の中、主人は嬉しそうにビデオを撮っていました。私は、叶わないと思っていた夢の中にいるようで、溢れる涙で視界が歪むほど幸せでした。
だけれども、そこから主人の腫瘍は、たかが外れたかのような勢いで進行していきました。愛する人から、一つずつ何かが失われていく瞬間を、目の当たりにしないといけない日々の心の痛みが、私の中から消える日はもうありませんでした。どんなに平気なフリをしても、心には毎日やわらかな傷が無数については血が滲む。もしかしたら、人間の尊厳みたいなものまで、奪い取りにくるつもりなのかと思えるほどの病の勢いに、私達が少しずつかき集めてきた小さな光や希望、信じた言葉や未来、勇気をくれた音楽さえも、砕け散ってしまいそうで、正直私の心は壊れてしまいそうでした。でもやっぱり私は、主人と息子ちんの前では強くて明るいお母さんのままでいたかった。彼らを笑わせたかった。一瞬でも優しい風を吹かせたかった。それは家族の幸せを守る為に、幸せな方の椅子に座り続けてきた私の最後の意地でもありました。
心の痛みに強い麻酔を打ってでも、いつものように息子と主人の笑いをとりにいく。毎日の中に、ひと匙でもいいから温もりを混ぜ込む。それが主人が亡くなる前に私が選んだ、最後の「幸せなままでいる椅子」でした。
やがて「涙が出ない」のではなくて、「涙を流さずに泣ける」ようになってしまった頃、超人的な強い心で、病と闘い抜いた主人は、最後まで私と息子を愛してくれたまま、お空に旅立ちました。37歳の時に病気になった彼は48歳に、小学1年生だった息子ちんは、高校3年生になっていました。
時空を超えて届いた声
時は流れ、主人が亡くなって全ての季節が一巡りしようとしていた2022年の初夏の頃でした。
息子が「これさ・・・パパが作詞したんじゃないかな」と、主人のギターケースの中から、1枚の紙切れを見つけてきました。その紙には主人の手でこんなことが綴られていました。
どうしようもない現実はいつもそこにあって
〇〇 ためいきだけが 少し 増えた
このまま いつまで続くのかな・・・
いつまで続けるのかな・・・
自分をごまかす ダウンする 夜は
いつでも思い出す 君の声
やさしくて 強い声を
いつか僕が立ち止まっても てしまったとしても
〇〇 歩き出せる きっと
進め前へ
進め明日へ
( 作詞:松山 周平(たぶん) )
そこに書かれていた言葉に、私は息を呑むというよりは、しばらく絶句していました。
彼が亡くなった後、我が家にお参りにきてくださった誰もが、「とてもじゃないけれど、普通は周平くんみたいに強くはなれないよ」「あんなに前向きに頑張れる人を見たことがない」と言ってくださいました。
そんな彼が「いつまで続くのかな」と弱気になり、「いつか僕が立ち止まっても」と自分がいなくなった後の世界にまで想いを馳せていた。私はそんな彼の文字をなぞって初めて、彼の裏側にあった本当の気持ちに触れた気がしました。そして、彼が亡くなる数日前に「俺の知りうる限り、みゆが世界で一番優しくて、世界で一番強い人だよ」と言ってくれた時のことが頭をよぎった時、彼の声が時空を超えて、私に届きました。
人前では決して下を向かなかった彼が、1人溜息を落とした夜に、自分のことよりも、やっぱり私と息子の未来を願ってくれていた。そして、彼は未来の私が「歩き出せる」と信じてくれていた。
「進め前へ」
「進め明日へ」
パパのこの号令があれば、私は何度だって歩きだせる。そう思ったら、私もパパのように強い人になれる気がします。そして今日も彼の声が、私の行くべき道を照らしてくれます。私の目の前に広がる道には、もう彼がいなくて、少し心細くなる時もあるけれど、パパの号令があれば大丈夫。今日も私は、「えい!」と一歩前に進みます。
大丈夫だった未来
そんなわけで、私は今日も少しずつ前へ進みながら、2024年の新緑の季節を生きています。今年の8月が来れば、主人がお空に行って3年です。今の私は、過去の嬉しかったこと、悲しかったこと、幸せだったこと、怖かったこと、悔しかったこと・・・その全てが、仲良く手を繋いだ時にしか見ることができないような、優しい世界にいる気がします。息子も大学生となり、授業やレポートは大変そうですが、あいかわらずお友達に恵まれて、毎日がとても楽しそう。
正直に言うと、主人が亡くなる前は、主人がいなくなった時「私はどうなってしまうんだろう?」「息子ちんは、果たして大丈夫なのだろうか?」と思っていました。いつか必ずやってくるはずの未来でしたが、そのほんのひとかけらさえも、私はイメージできていなかった。でも結果から言うと、私の未来は・・・大丈夫でした。
「どうして、私は大丈夫だったのだろう?」とずっとずっと考えてきました。今日もまだその答え合わせのさなかですが、やはりそれは、私が「幸せな方の椅子」に座りながら紡いできた時間と、関係があるように思います。主人の10年間の闘病中には本当にいろんなことがありました。その日々は、どうしようもない絶望とか、あり得ないような希望とかが、常にごちゃ混ぜな世界でした。でもそんな中でも、「悲しい出来事」と、「幸せな気持ち」は両立できる。そのことを「幸せな方の椅子」が教えてくれた10年間があったからこそ、私の心は、悲しい気持ちだけに占領されることなく、大丈夫だったのかもしれません。
そして、幸せな方の椅子は、やっぱり「どんな時にも存在する椅子」だったということを、今の私の穏やかな日々が証明してくれているように思います。
未来に置かれていた椅子
ただ最近になって、パパがいなくなった後に紡がれた時間もまた、「新しい光」となって、私の心を丈夫にしてくれていたことに気づきました。
実は、主人が亡くなった頃の私は、「これからの未来は、過去の幸せをただひたすら大切にする為にあってもいいのかもしれない」と思っていました。多分主人が亡くなった時に、私の世界は一旦、ピタっと静かに止まっていました。それは、自転していた地球が静止するかのようだったし、映画に例えるとしたら、最後のクライマックスの闘いが終わって、エンドロールが静かに流れているような状態。
私は決して新しい未来は欲しておらず、主人が残してくれたものや、家族3人で紡いだ幸せな記憶さえあれば、もう十分余生を幸せに暮らせていけると思っていました。だけど・・・エンドロールが終わって、パっと映画館に明かりがついた時、目の前に「幸せな方の椅子」とは、またちょっと違う「新しい椅子」があるのに気づきました。
その椅子は、ただ静かに座れば良くて、「もう何も心配したり頑張らなくてもいいんだよ。とりあえずゆっくりしてね」と、前もって主人が置いてくれていたようにも感じました。そっと体を預けてみると、何年かぶりの安堵感に肩の力が抜けていくような椅子でした。
そして本当に予想外だったのはここからです。今度は映画館の扉の外に私をいざなってくれるような「優しい椅子」を置いてくれる人が、後を絶たなかったのです。
例えばそれは、この連載を書いてみませんか?と、声をかけてくださった一田憲子さんでした。私は、一田さんが目の前に置いてくださった、この「書く椅子」のおかげで、過去の悲しかったことを優しさに変えることができた気がしています。主人が病気になった頃から、自分のことを他の人に話せなくなってしまっていた私に、再び心を開く術を与えてくれ、私の未来や、ひょっとしたら運命みたいなものまでを変えてくれた「優しい椅子」を置いてくださった人でした。
また、主人が亡くなった時が、コロナ禍の緊急事態宣言下であったが為に、お葬式は近親者のみでさせていただいたのですが、そのことが、想定外の「優しい時間」を連れてきてくれました。初七日が終わった頃からだったでしょうか。主人が生前とてもお世話になった方々の、我が家への訪問が絶えなかったのです。お葬式であれば、恐らくそんなに沢山の方とは、長くお話できなかったと思います。それが、お1人、もしくは2.3人ずつの少人数で、時間や日にちもずらしながら来てくださったので、皆さんそれぞれと1時間、いえ、それ以上、主人の思い出話ができたのです。皆さんがお話してくれる生前の主人のエピソードが、一つずつ私の心に染みこんでは、あたたかな気持ちにしてくれました。それは私の心の悲しみが和らぐのを助けてくれた「優しい椅子」でした。
また、そんな訪問が落ち着いて、百箇日を迎える頃、まるで何年も張りつめていた糸がプツンと切れたかのように、私の体のあちこちが壊れてしまったことがありました。その際にお世話になった整骨院の先生のことも思い出されます。ひたむきな若い先生でしたが、私と同じように、近しい大切な人をなくした経験を持つ人でもありました。そのことをはじめて知った時は、私の心もズンっと痛んだけれど、きっと、同じ痛みを知る人にしか置けないような椅子が、そこにはいつもあった気がして、今でも思い出すたびに、そっと感謝したくなります。そんな偶然を装ったかのような一期一会の中で、気づけば私は、体の痛みも和らぎ、他愛のない話でもお腹の底から笑えるようになっていました。その椅子もまた、私が再び歩き出すための力を貸してくれた「優しい椅子」でした。
他にも書き出したら、もうそれだけで一冊の本になってしまうのではと思えるほど、今の私の頭の中には沢山の優しい人達の笑顔が次々に浮かんできます。主人の友人、知人、同僚の方、私の友人、知人達、そしてもちろん息子ちんを筆頭に親族達も然りで、みんなそれぞれが、それぞれにしか置けないような優しい椅子を、私の目の前にそっと置いてくれました。彼ら、彼女らがいなかったら・・・多分私は今もまだ、真っ暗な映画館にいたかもしれませんでした。
未来を欲さず、過去だけを欲して生きていけばいいと思っていたのに、人生は、今日も新しい幸せを、私に見せようとしてくれます。私が目をひらけば、きっと明日も新しい幸せが待っているのかもしれません。それを受け取ることを、人生が私に望むのなら、私は大きな声で「yes!」と言おうと思います。真っ暗な夜に、パパが私を信じてくれたように、前へ進もうと思います。
私の周りには沢山の優しい人がいてくれるから、もう心に麻酔は打たなくても大丈夫です。これからは少し肩の力を抜いて、パパが残してくれたこの世界で、私は新しい光にも手を伸ばそうと思います。時折、優しい椅子で休みながら、生きていけたらと思います。
第4章までは、私の記憶や日記を頼りに、10年前の私の気持ちを手繰り寄せるように書いていましたが、第5章からは「今の私」で書けることを少し書いてみようと思っています。優しい椅子から見える景色を、言葉にできたらと思います。もう少しだけ、おつきあいいただければ幸いです。