連載:幸せな方の椅子 第11回:第3章 ありふれた奇跡のはじまり➂  - 幸せと不幸の境目 -

皆さん、こんにちは。ついこの間、クリスマスだったような気がするのに、もう春の気配のする今日この頃。通勤路の早咲きの桜はもう満開です。世の中にどんなことが起ころうとも、毎年必ず美しく咲いてくれる桜。今年も楽しみですね。それでは、今回もお時間あれば、おつきあいいただけましたら幸いです。

 

ありふれた奇跡の日々がはじまって。

—————————————————–
人生には二通りの生き方しかない。
ひとつは奇跡など何も起こらないと思って生きること。
もうひとつは、あらゆるものが奇跡だと思って生きること。
         By アインシュタイン
—————————————————–

2012年秋。主人はM先生という医師に出会うことになります。主人が望んだ治療をしてくださる先生でした。M先生はお医者さんというよりは、「研究者」と言った方がしっくりくる方で、M先生の口からこぼれる言葉は、普通のお医者さんとは随分と違うものでした。恐らく先生の辞書には「あきらめる」という文字はなくて、患者から希望をそぐような言葉もない。明るくて暖かく、いい意味で緊張感もなく、主人はM先生に会う度に、まるで「希望」とか「光」という名の薬を処方されたかのように、元気モリモリになっていきました。その治療で、腫瘍が小さくなることはありませんでしたが、とても長い期間、体に悪さをするほど大きくなることもなく、主人は「ただの普通のお父さん」そして「ただの普通の夫」でいれる時間を、随分と沢山いただけることになりました。

後の日記に私は、

「私達が幸せなままでいる為には、どんなに小さくてもいい、光や希望みたいなものが必要だった。その光は、他人には「そんなの光じゃないよ」と言われても、自分達が光と思えさえすれば良かった。」

と書いています。M先生と出会えたことは、私達にとっては「一瞬先は光」と思えるほど大きなものでしたが、その後の私と主人は、大小関係なく、光や希望に見えるものを、大切にかき集めながら、人生を形作っていった気がします。

再発した2012年秋~2021年夏に主人が永眠するまでの9年間。M先生との出会いを含みつつ始まったその日々は、日数にして「3490日」にも昇ります。

それは、生きているのが当たり前だと思っていた頃とは、比べものにならないぐらいの、何十倍も深い意味のある日々で、今も私と息子を過去から照らしてくれています。まさにアインシュタインが言うところの、どんな小さなことでも奇跡だと思いながら生きることのできた日々のはじまりでした。



薄まっていく幸せと不幸の境目

最初に主人の病がわかった頃は、それこそ「幸せな方」と「不幸な方」の2つを見比べて、「こっちは絶対嫌。だからこっちに座ろう。」と、力づくで幸せな方の椅子に座ることが多かった私でした。でも、再発した後、全てのことにありがたみを深く感じるようになった頃からでしょうか? もう「幸せ」とか「不幸」とかの境目は、分からなくなったというか、もはやどうでもよくなっていった気がします。

何かマイナスな事象が起こったとしても、それは幸せな方へ転じることができる。そして「それまでの時間」の上に「新たな幸せな時間」が折り重なる。そんな経験を繰り返していくうちに、「転じる前」と「転じた後」が「一つのまとまり」のように、私には見え始めていたからかもしれませんでした。

腫瘍がまたいつ大きくなりはじめるか、それが来月なのか?1年後なのかも分からない不安定さが常に根底にある日々ではありましたが、だからこそより一層、主人が元気なまま過ごせている日々の重みは増す一方で、再発前よりも何倍も、日々の小さな幸せが、心の中で最大化されて膨らんでいくような感覚がありました。そしてその分、起こったことに対する憤りや恨みのようなものは最小化されていき、私達は今を味わい尽くすことに、より集中できるようになった気がします。

「今日も世界一幸せだった!」という文字を何度も日記に書くほどにもはや私達は決してもう、ちっとも不幸ではありませんでした。


今と未来の挟間に永遠を作る

「幸せな日を過ごして、優しい気持ちで、その日を終えることができたなら、その瞬間、未来で思い出せる幸せな日が、1日増えたことになるよね。」

当時、福岡県の北九州市にあったスペースワールドというテーマパークの「ガンダム展」目当てに、家族3人でお出かけした帰り道、そんなことを主人と話したことがあります。

人が皆、1人残らず、この世を去る時がくるのなら、まるで夏休みの残りの日々が減っていくかのように、1日が終わる度に、大切な人と過ごす日は「1日減ってしまう」ように思えます。

だけれど、砂時計の砂が、上から落ちる前と下に落ちてしまった後で、砂の量が全く変わっていないのと同じで、幸せな日を過ごすことができれば、記憶の底に幸せな時間がどんどん溜まっていく。決して「減る」のではなくて「増える」。

主人は「死ぬ覚悟」ではなくて、最後まで一日でも永く「生きる覚悟」をして生き始めていましたが、それでも、自分が亡くなった後の世界のことも常に考えている人でした。きっと死を意識している人以上に、毎日を大切にできる人はいないんだろうと思います。

彼は、私と息子の「未来」が、少しでも大丈夫であるようにと、いろんなことを考えはじめているようでした。特に彼は、自分が残せるもの全てを、息子の記憶の中に、残したいと思っているような節がありました。愛してやまない息子の記憶に「生きている自分の中にある、ありったけのものを残す」ということは、彼が「未来」に確実に残れる唯一の方法だったのかもしれません。彼はきっと、息子の中に、未来への光を見ていました。

それは私も同じで、そうなると、息子の頭の中の記憶を、大切な記憶でいっぱいにしなくてはなりませんから、もう私達は、毎日を幸せな日にする達人にならなければなりません。旅行やサイクリングやお出かけなどの楽しい思い出はもちろんのこと、彼が将来の人生を歩む時に、大切にしてほしいことを伝えることも私達夫婦の大事なミッションとなっていきました。時には本気で叱ることなんかも含めて、日々の全ての瞬間が、大切になっていきました。

困った人がいたら、そばに近寄って「じゃあ、僕には何ができるかな?」と真っ先に聞けるような人になってほしいこと。この人は本当に大事な友達だと思えたことが一度でもあるのなら、生涯大切にすること。そして、その友達が悩んでいたら、その悩みがあまりにも大きくて、自分では何もできないように思えても、真っ先に飛んで行って、そばにいてあげれるような人であってほしいこと。主人が病気になったからこそ、私達夫婦が息子に伝えることになったことも沢山あったように思います。

そんな日々が、幸せな色を纏いながら、まるで貯金通帳の中の数字が増えていくような様子が、当時つけていた日記帳(ほぼ日手帳や、5年日記、10年日記)を見れば一目瞭然なのです。まるで宝石箱の中の宝石のようにほとんどのページがキラキラしています。5年日記、10年日記となると、一日の文章自体はとても短いのですが、息子とのストレートな会話の中に、私達家族の真実のようなものが透けてみえるようなものがとても多く、まるで私達家族3人からの未来への伝言のように思えます。

私達はあの頃多分、「今」と「未来」の挟間に「永遠」を作り続けようとしていました。
その時は、その挟間に無数に撒かれた大切な種が、未来で花を咲かせ、果実がたわわに実って、私と息子をこんなにも支えてくれることになるとは、夢にも思っていませんでしたが・・・。

「幸せな方の椅子に座る」という考えは、たとえどんな環境下におかれても、自分の生き方は、自分で選ぶことができるという考えに基づいています。でもそれは、少し角度を変えて眺めてみると、自分の人生がうまくいっていないことを、起こった出来事のせいには決して「できない」ということでもあるのかもしれません。

できれば、お気に入りのとっておきの洋服を選ぶように、自分の人生に対する在り方を、毎日自由自在に選べたならどんなにいいだろうと思いますが、その為には、まず、「私は起こったことには、左右されない」と決めることが大切なのだと思います。そして、そう決心できた瞬間にはじめて、人はどんなことが起こっても、幸せなままでいれるのかもしれません。そうやって自ら、身に振りかかったことに対する恨みつらみを消せた時、不幸と幸福への間の境界線は消え、幸せな方への扉が開く。そして、一歩一歩、歩を進める度に、不幸な出来事は遠く小さくなって、自分で見つけた幸福が、自分の人生の中で膨らみはじめる。

あの頃に知ったそんなことを忘れずに生きていけたらと思います。そして、もし不本意にも、不幸という名の枠に入れられてしまっている人と出会ったとしても、私はそんな枠は壊したい。そして、その人に「不幸」という言葉は使わないでいたい。なぜなら、その不幸にも、未来への幸福との間には、境界線はないと信じていたいからです。

2016年3月 息子の小学校の卒業式の朝。こんなありふれた光景も、私達にとっては決して当たり前の光景ではありませんでした。この写真を撮るためにカメラを覗いていた時の私の気持ちは・・・想像にお任せします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回も頑張ります! お楽しみに♪



 

 

 

 

 


特集・連載一覧へ