連載:幸せな方の椅子 第10回:第3章ありふれた奇跡のはじまら➁  - 楽観的なバイアスをはずす椅子 -

2013年の博多駅のクリスマスツリーです。毎年必ず主人と訪れていたので、私の心の中の歴代の博多駅のツリーには、沢山の思い出が刻まれています。今年はなんと!イベントで博多にいらした一田さんと一緒に見ることができて本当に幸せでした。帰りの電車の中で「幸せは必ずまた降り積もるんだね」と、夜空から見ていたかもしれない主人にそっと語りかけました。

 

 

皆さんこんにちは!!ライター塾7期生の松山美由紀です。この連載を書いていると、時折文章の中で、主人が生き生きと蘇えるような感覚を覚えることがあります。私は、今この瞬間を生きているし、人は皆、その「瞬間」にしか生きることはできないのに、私の記憶や文章の中でなら、主人は鮮やかに蘇り、いろんなことを教えてくれます。記憶が遠くのものになる前に、主人が教えてくれた大事なことを早く書き残さないといけない気がして、正直焦ってしまいそうになるのですが、恐らく「大丈夫、落ち着いて」と主人はにっこり笑いながら応援してくれてる。だから今日も私は、原稿に向かいます。お時間許せば、今回もお付き合いいただければ幸いです。


それでも進まないといけない日に座る椅子

例えば、明日から長い船旅に出る予定があるとします。それなのに、前日の夜になって、天気予報で数日後には大きな嵐が来るかもしれないと知ったら、どうするでしょう。

① 今はこんなに晴れてるし「まあ、なんとかなるでしょ?」と、希望的観測の元、とりあえず船を出航させる。対策は後で練ることにする。

➁ 出航前にあらゆる角度から最悪な嵐が来ることを想定し、急いで信用できる情報を集め、満身創痍で出航する。

➂ 嵐に巻き込まれ、命を落とす可能性もあるのだから、出航を取りやめる

私だったら、多分➂を選ぶし、息子が船に乗ると言い張っても、行かせたくないなと思います。それにこういう時は、船会社が出航自体を取りやめるのかもしれません。

だけれども・・・
不治の病と闘う時というのは、この「出航しない」という➂の選択肢が与えられないのです。

たとえ大変な未来が待ち構えていることが分かっていても、震える足をおさえてでも進まないといけなくて、嵐がくる度に船にしがみつき、どうしたら命を永らえられるかを問うても答えが見つからず、その問いを残したままで、さらに進まないといけない。
私と主人も、そんな得体の知れない嵐が待っている海に、2人で手を携え、飛び込む覚悟をした日がありました。今回はその日に、主人が座った椅子のお話です。私達は再び、体中からかき集めた勇気で心を満たし、自ら描いた未来予想図を片手に、船の舵を握っていくことになります。それはまぎれもなく➁を選んだ航海でした。

2013年のクリスマスの頃


- 2人が戦友になった日 -

2012年9月20日、主人の病の再発が分かった日の夜のことでした。いろんな不安や恐れが混濁していくような空気の中、車中で交わした主人との会話を、私はとてもよく覚えています。

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(昼間の診察で、1人で再発の告知を受けた主人に、先生からの説明の詳細を教えてもらっていた時のことです。)
パパ:(かなり明るい声で)「でもさ!今は医学も進んどるし、治るかもしれんやろ?いい薬もあるんやない?」
私「・・・・・・・・・この1年半、いろいろ調べてたけどね、パパの病気の場合、そもそも、珍しすぎて研究が進んでないんよ。参考にできるデータも少ない。」
パパ「・・・・・・・・・・・・」
私「それに、薬(化学療法)では、多分、治らん。」
(私は心がいっぱいいっぱいで、何故かイライラして、怒ったように言ってしまった記憶があります。本当に申し訳ないほどに。)
パパ「・・・・・・・・・・・・」
私「外科の先生が内科に回すということは、多分手術も無理なんやと思う。」
パパ「・・・・・・・・・・・・」

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私自身が普通の心理状態でなかったとは言え、もっと付け加えるべき言葉があったと思うし、「大丈夫だよ、パパが死ぬわけないよ。」と、マリア様のように優しく言ってあげることもできたはずでした。

でもこの時の私は、主人から主治医の説明の詳細を聞いて、すごく焦っていました。再発はある程度は予想していたのですが、思っていたよりも少し早かったこと、播種での再発なので恐らく手術はできない、放射線も腫瘍が複数出てきてるから多分無理で、化学療法も肺癌のものを受けられるかもしれないけれど、当時の海外のガイドラインには、あまり期待できないと書いてあった。そもそも希少癌ゆえにエビデンスのある薬剤(臨床試験などで効果が認められた薬剤)が当時はまだなく、薬を打っても効くかどうか分からないということは、無駄打ちになる可能性もある。それなのに、恐らく副作用はある程度強いものを勧められるだろう・・・治療が始まれば、息子ともいろんなところへ遊びにいけなくなるかもしれない。

そんな様々なことで脳内が爆発しそうなぐらいの勢いでひしめきあっていて、いつものようなマリア様作戦を実行する余裕なんて、これっぽっちもなかったのです。
焦りまくっている私が不用意に差し出してしまった「治らん」という強い言葉に、案の定、絶句してしまった主人を見てはじめて、「しまった・・・」と思いました。主人の心の深くまで、私の言葉が突き刺さってしまったような気がして、目の前が真っ暗になったように感じたし、まるで声帯が麻痺したかのようにそれ以上私は何も言えず、重たい沈黙が永遠に続くかに思えた時でした。

主人が、呆れ果てた顔をして、「あんた、そ〜んなこと、よう〜言うわ! 〇〇先生でもそんな「治らん」とかハッキリ言いきらんばい!」と、くくくっ、と肩をすぼめるように笑っていました。
「ごめん」としか言えない私に、主人はまたそこからしばらく何かを考えているようでしたが、意を決したように、そして何か大切なスイッチを押すかのごとく、
「よし!分かった。みゆがそう言うんなら、きっとそうなんやろ。俺も覚悟を決めろってことやね?その前提で(治らないという前提で)動けばいいってことやろ?その上で、あがいてやるよ。みゆが夜な夜な調べてくれてたのは知っとうし、頼りにしとうよ。情報収集係はみゆに任せるけ、そのかわり全部教えて。」というようなことを、言ってくれたのでした。
この時点から遠い未来にいる現在の私から俯瞰してみると、すごく良く分かるのですが、これが私と主人が、長い長い闘病生活を共に闘う「戦友」になった瞬間でした。
ここから、ぐーっと私達の船は、自らの意志を原動力に、力強く動きだすことになります。そして、主人が私の調べた情報や、医師達の意見も聞きながら、一生懸命考え抜いた作戦を携えて選んだ航路には・・・・
恐らく当初は、誰も想像していなかったような未来が待っていました。


2012年12月24日(再発して3ヶ月後のイブ)

 

- 大切な場面では、楽観主義の椅子には座らないという選択 -

これは結果論になってしまいますが、もしもあの夜、私が主人を安心させる為に、夢物語のような楽観的なバイアスをかけて、現実を排除した言葉をかけていたとしたら・・・その後の未来が随分と違っていたような気がしてならないのです。

(*楽観的バイアス:現実よりもポジティブな結果を期待して楽観的にものごとをとらえること。時に自分にとって都合の良い情報だけを拾ってしまう可能性もあり、事実を歪めて受け取る恐れもある。)

私が不用意に差し出してしまった「治らない」という言葉は、主人にとっては、最強にネガティブな言葉だったと思います。「幸せな方の椅子」どころか、「幸せでない方の椅子」を私が彼の前にポンっとおいてしまったように思われても仕方がなかった。

なのに主人は、ほんの短い時間で、事態を呑み込もうとしてくれ、楽観的な考えを横に置いた。あの時の主人にとって、現実を把握するということは、「病気が治る可能性が低い」ということを受け入れることだったし、それは「死」が頭をよぎることだったはずでした。

そんな過酷な椅子は、やはり「幸せな方の椅子」ではないように思えます。これまでの連載に登場してきた椅子がどれも、私達家族の穏やかで幸せな毎日を守る為の、どこか優しげな椅子だったことを思っても、この椅子はあまりにも残酷で、誰もに勧められる椅子ではありません。

だけれど、後になって考えてみると、この主人が座った椅子も、私達にとっては、紛れもなく「幸せな方の椅子」だったのです。
なぜなら、この椅子のおかげで私達は、まさに「死ぬ気」で生きる術を探す行動に出ることになり、その行動の結果、予想もしていなかったほどの幸せな恩恵に浴することになったからでした。

楽観的なバイアスを外す椅子

ここで、冒頭の航海のお話に戻ります。

①の「なんとかなるだろうと楽観的に考えて、嵐の情報を把握せずに航海に出る」

➁の「ありとあらゆる情報を把握して対策を練って航海に出る」

この2つの違いの中に、病と闘う時にも役立つような大切なヒントが隠されているように思います。

①だと、根拠のない楽観主義で現実をぼんやりさせたままになるので、真実と向き合うことが遅れます。楽観的なバイアスをかけながら前へ進むことの本当の怖さは、目の前にある真実や選択肢を「無自覚のまま」見逃してしまうこと。最初は楽かもしれませんが、後で眼前に現れる現実(嵐)の前では、なす術がなくなってしまっているかもしれません。

➁だと、正確な情報を知ったが故に、①とは比較できないほどの危機感を感じることになりますが、その分、すぐにでも自分達にできるベストな対策をて探しはじめます。人というのは、実は切羽詰まった時というのが、一番迷いなく思考を行動に移せたりします。そして、そうやって行動した未来には、選べる選択肢が広がっていることにも気づくと思います。

私達の場合も、病の再発という、のっぴきならないものに対する最初の態度が、その後のすべてに影響を与えていきました。
あの夜の主人は②を選んで「楽観的バイアスを外す椅子」に座り、その上で自らの未来を一日でも永くしたいと願いました。そして、その祈りにも似た焦燥感を起点に、彼は自分の運命を左右することになる治療法に出会います。
実はその治療も、医師からは「効く確率は1割」と言われるような治療でした。それでも、私が溜めこんだマーカーだらけのファイルに全て目を通し、信頼できる機関の情報コンテンツを見終えた主人が、1番受けてみたいと言ったのがその治療でした。
本当にそれでいいのかと心配する私に彼は、「もしも効かずに失敗しても、その時はそれでいいと思ってる。1か月だけでもいいから受けてみたい」と。
そして、

「失敗しても失敗した例のデータになれればいい。未来の為に役に立つだろうから」と言い切りました。

失敗しても誰のせいにもしないと言ったあの時の主人の顔は、自分の命をかけてでも、人生の舵をしっかりと握って、嵐を進もうとする船長さんのようでした。
私自身はというと「吐きそうなぐらい(その治療法でいいのか)悩んだ」と当時の日記には書いていますが、彼の目には微塵の迷いもなかったとも書いてあります。多分それは、やむを得ず一度きちんと絶望したことのある人の目でした。

そして彼は、望みどおりその治療を受けることになり、その決断が功を奏します。なんと、その後の9年間もの時間を彼は、ほぼその治療のみを軸に、生き抜いてくことになりました。

9年間・・・それは、私達にとっては、当初は夢見ることさえ許されなかったような長い長い年月でした。何と言っても、悪性度の高い部類の癌だったことを思うと、彼は幸運だったと言われるのかもしれません。だけどそれは運だけではなくて、厳しい現実を悟った主人だからこそ掴み取れた未来でした。

「現実から目を反らさずに、一旦全てを理解した上で(受け入れた上で)、一日でも永く生き延びる道を探る。現実を悟っているからこそ奇跡を起こせるし、起こしてみせる。」
これが、彼の生涯を通して決して変わることなかったスタンスになりました。

本来は「超」がつくほど楽観的で能天気な私と主人でした。でも、あの夜だけは、楽観的にならずに良かったのかもしれないと思えています。
そして、私の差し出した最悪な椅子を、「幸せな方の椅子」に変えてくれた主人を、私は心の底から誇りに思っています。

 

我が家では、クリスマスイブの夜は、息子がクッキーとミルクをサンタさんに用意してからベッドへ。そして、翌朝起きたら、クッキーとミルクがなくなっているかわりに、サンタさんからの英語のお手紙が!(もちろん主人が書いたものですが、息子は、この英語のお手紙のせいで、かなり大きくなってもサンタさんを信じてました(笑))



2020年12月24日。主人との最後のクリスマスイブ。ツリーの元には主人から私と息子への、沢山のプレゼントがありました。私達家族がどこまでも私達らしく幸せだった日でした。1分1秒の幸せを脳裏に刻むように大切に過ごした日。あの日の優しい記憶を、永遠に消えない暖かな灯にすることができたなら、私はこれからもずっと「過去」と「未来」両方を結んで大切にしながら生きれる気がしています。

 

 

 


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