連載「幸せな方の椅子」第8回:第2章④ 幸せなままでいれた日々   Please do not disturb.(ちょっとご遠慮ください)の 椅子

皆さんこんにちは。お元気にされていますか?
ライター塾7期生の松山美由紀です。


今年の夏、主人の3回忌を迎えました。

節目にいろんなことを思い返していますが、
私達は時に苦しかったけれど、やはり、どうしようもなく幸せだったと思えています。

どんな時でも幸福はある。
そう信じてかき集めた小さな幸福を、
煎じ詰めて残ったものを頼りに、
今の私は生きています。


今回の連載を書いている中で、私自身が過去の自分に気付かされたことがありました。
それは、過去のあの頃のことを、永遠に大切にしながらも、今日という日の新しい「今」も、
私は大切に生きていかなければいけないということでした。

今回もおつきあいいただけたら、嬉しいです。

 

戻ってきたキラキラ輝く毎日    

私がやきもちを焼いてしまうぐらい仲良しな2人でした。ベーコンエッグのように、いつもくっついてました。                                     

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パパは職場で、まわりの人達に暖かくしてもらっていて、私は私で、暖かい友達に元気にしてもらってる。私達は幸せ者だね。これからは何度でも何度でも幸せを思い知ろうね。
2011年6月の日記より)
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2011年6月、主人は手術の後の放射線治療を終え、仕事に復帰することになりました。息子の毎日も、私達の心配は何だったの?と思うほどに、キラキラしたままで、ほっと一安心!

例えばその頃の日常はというと、息子がピンポーン!と帰宅して私が玄関を開けると、息子の背後には元気いっぱいのお友達がワラワラいます。みんなまだ小さくて可愛くて面白くて!男の子だから、時折小競り合いもあるんですが、それぞれが自然発光体のような子供達が我が家に遊びにくると、家の中がぱっぱっぱっ!と明るくなる。多分、キラキラ菌であったり、ほのぼの菌だったりを撒き散らかしながら生きているような彼らのおかげで、私達夫婦がどれだけ救われたか分かりませんでした。

それに、子供達もパパのことをとても心配してくれていました。「〇〇くんのパパの手術、大成功だったよ~」と私が言えば、盛大に拍手をしながら「ヤッター!」とピョンピョンはねてくれる。逆に、パパが退院して家に帰ってきた時は、とっても静かにしてくれて、みんな小さいのに、すごく気遣ってくれました。

それは多分パパが、この田舎町に引っ越してきて以来、どんなに仕事で疲れていても、夜勤明けでボロボロでも、子供達と三つ巴になって遊んでくれる人だったからかもしれませんでした。授業参観に行くと、「〇〇くんのお父さ~ん!」と、あちこちから声がかかって、あっというまに子供達に囲まれるような人だったから。

そんなパパと子供達のおかげで、私にも幸せを噛みしめるような日々は、あっ!というまに戻ってきました。でも一方で、我が家に加わった、のっぴきならない事情というのが、大きすぎる存在感をもって、私の心にあるわけです。

パパは治療法が確立していない希少癌のステージ4a。播種もしていたので(腫瘍が胸の中に種のごとく零れ落ちて蒔かれている状態)再発してくる可能性も決して低くはない。5年生存率は30%。10年生存率は・・・当時は、医療機関によっては、0%とありました。

5年生存率が30%ということは、息子の小学校の卒業式にパパが出席できる可能性が30%しかないということです。仮に10年生存率が0%とすれば、高校の卒業式にはいないことになる。

私の頭の中に、その二つの時計が、深く埋め込まれた気がしていました。それは幸せな光景の背後で、ひっそりと時を刻んでいるような時計。

そんな風に決して消すことのできない現実を孕んでしまった毎日と、日々流れ込んでくるキラキラした生活。眩暈がしそうになるぐらいのそのギャップ。そしてその差にハッと気づいた時の瞬間的に湧きあがる恐怖感。

恐らく私の心はこのギャップに強い抵抗を感じながらも、相反する二極を行ったり来たりしていました。「大丈夫、私は大丈夫」とは思ってはいるけれど、行き来するたびに心が擦り切れる。「幸せな方の椅子」があったので、手術の前のように、ずっと沈んでいるわけでもないんです。ちゃんと幸せな方の椅子もある。ちゃんと笑えてもいる。だけどやっぱり苦しい。逃げ道はないようにも思える。さて、どうしたらいい?

実は、そんな中で見つけた椅子がありました。

 

息子ちんに、やっつけられているパパちん。ちなみに、息子のお友達にも、パパはいつもコテンパンにされていました。

 

- 幸せな「今」を守る椅子 -

例えば、キャンプや旅行に行った時、息子とパパが戯れている光景に「ああ、世界一幸せだな」と思う瞬間であったり、又は、映画を見に行った帰りのエスカレーターで、2人が生き生きと映画の感想を語り会ってる幸福な場面で、突然心の中の「幸せ」が、「不安」にハイジャックされる・・・そんなことが私の中で起こるようになっていました。

それは、再発の心配が常にある中で、「この幸せは長くは続かないかもしれない」と私が思ってしまうから。今確かに目の前に幸せな光景があるというのに、なんとも、もったいない話でした。

でも、例えば来月の定期健診で再発が見つかれば、すぐにでも治療に入るかもしれない。そう思うと、どうしても心がきしんでしまって、いとも簡単に不安に乗っ取られてしまうのでした。



そんなある日のこと。

その日は休日で、主人はまだ私の隣でスヤスヤ眠っていたので、目の前にあった主人の手を握ってみたら、すごく暖かかった。

「ああ、この温もり、高校生の頃から変わらないな。」と、最初は幸せな気持ちだったのですが、案の定「私はいつまでこの手を握ることができるんだろう・・・」なんて思ってしまうと、とたんに悲しくて苦しくなっていました。

この瞬間的に湧きあがる苦しさを防ぐのは凄く難しくて、思わず振り払うように主人の手を離そうとした時でした。寝ていたはずの主人が、突然ギュッと、私の手を握り返してきて、そして、目を閉じたままニッコリ笑ったんです。

その顔が、あまりにも能天気で「なんなんだ、この人は・・・」と思ったけれど、よく考えたら、少なくとも今私達は、ちゃんと手を繋ぐことができてるんだなあと思いました。

人は、「幸せな毎日=不安や心配がない毎日」だと思いがちですが、「それは違うよ。それだけじゃないよ。」と、主人の笑顔に教えられた気もしました。

気づけば、我が家の一番東に位置する寝室には、朝特有の暖かい光が満ちていて、その陽だまりの中で大切な人が眠っていて、そしてその人は寝てるのに何故か人の手を握って笑ってる・・・

その顔を見ていたら、例え逃げられない現実があっても、少なくとも今だけは、この空間の中で、私も幸せを感じることのできる存在になりたいと思いました。

思えば、彼の命が有限だと思い知らなければ、ここまで手の温もりを愛おしいと感じなかったかもしれない。それがなくなることがこんなにも怖いのも、私にとって何が大切かが分かったからだ。せっかくそれが分かったんだもの・・・・・不安には引っ込んでもらうしかない。そして、陽だまりのような幸せを邪魔しないでもらわないと。

そう思ったら、元々せっかちな私は、一刻も早く、寝室から「不安」とか「心配」と名の付くものには出ていってもらいたくなって、

「ちょっとごめんなさい!今、私達、とっても幸せなところだから、外野(不安や心配)は、遠慮してもらえませんか?今だけでいいからお願いします。」
思わずそんな風に思いました。

よくホテルに泊まった時に「Please do not disturb・・・(部屋に入らないでください)」という札が部屋に用意されてるでしょう?!あれを心の扉のドアノブにえい!ってかけちゃおうと思ったんです。

実はこれが、今回ご紹介する幸せな方の椅子。
名付けて、「Please do not disturb.(ちょっとご遠慮ください)」の椅子です。

その結果、不安や心配が、ちゃんと遠慮してくれたんです!
さて、それはどうしてだったのでしょうか・・・

シロクマさんが椅子の上でスヤスヤ眠っています。
そっとしておきたくなりますね。



「ちょっとご遠慮ください」がうまくいったのは何故?


「幸せ」と「心配や不安。」

この2つって、対局にあるように感じるけれど、実は、お互いがお互いを内包してしまっている時があるんだろうと思います。(内包:お互いがお互いを含みあってる状態。)

たとえば、身を切られるようにせつなくなるのは、深くその人に愛された幸せな記憶があるからだったりもするんだろうし、相手が唯一無二の存在だからこそ、いなくなるのが絶えられないほど苦しい。

だから、その苦しさから逃れたいがために、苦しい感情だけを消そうとしても、両方が含みあっている以上、切り離すことは所詮無理だったのかもしれません。

そして「心配」や「不安」も、自分の愛情から発生しているものだとしたら、それ自体が自分の心や人生そのものを形作るもので、否定されるべきものではない。ただ、そうした感情に、自分の人生の舵を渡してしまったらいけないというだけのことなんだろうと思います。

だから「心配」や「不安」を、敵のように見なさずに、きちんと向き合って「今だけ申し訳ないけど、いいかな?」「遠慮してもらえないかな?」と、まっすぐお願いしてみる。

でも、遠慮して欲しいとお願いする相手も、実は「自分」です。
自分が自分にお願いしている気がします。
だって、まだ起こってもいない未来の心配や不安というのは、自分の心が生み出したものだから。

もちろん、主人が不治の病を患ったが故に生まれた感情ですから、元々は病気が原因です。だけれども、最終的に今の幸せを直接ハイジャックしているのは、自分の「不安」という名の気持ち。

自分の敵だと思っていたものは、ぜんぜん敵じゃないし、きっと誰も何も悪くない。
そう思うと、自分の不安や心配にも、優しくなれそうな気がします。

主人に限らず、1人残らず、私達の命は有限です。だったら、大切なものが目の前にある時は、それを守った方がいい。その為に、自分の心配や不安にもちょっとだけ協力してもらう。

この「ご遠慮ください」の椅子は、人生の中に「幸福な時間」を増やせる椅子です。即効性もあるし、何より応用の範囲がとても広い。大切なものを守る為なら、何にでも使えます。例えば、本当に自分が大切だと思うものがあるのなら、固定観念なんかにも遠慮してもらっていい。「今だけは」と期間を設けることで、ほんの少しの間、心を休めたい時にもおすすめです。

私も、この1週間だけでも、何枚も「Do not disturb」の札を使って、大切な瞬間を味わったり、守ったり、思い出を作ったりしていました。

皆さんも「Please do not disturb.(ちょっとご遠慮ください)」の札を、心の片隅に何枚か準備してみてはいかがでしょうか?

きっとお役に立てる時がくると思います!

 

数年前まで、我が家の庭木に、キジバトさんの夫婦がやってきては、こんな風に巣を作って、卵を温めていました。パパ鳩とママ鳩は、交代しながら巣を守り続けます。どんなに強い台風がきても、決して卵から離れず、巣を守っていました。私も、キジバトさんのように、大切なものがあるのなら、どんな強風にさらされても、それを守り抜く人になれたらと思います。

 


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