「自分のため」の苦しみから、「人のため」の喜びへ 尾上由子さん vol.4

「はじめの一歩の踏み出し方。」 尾上由子さん vol.4

 

この連載「はじめの一歩の踏み出し方。」は、
大切な時ほど足踏みしがちな私・矢島美穂が
インタビューを通してあの人の「はじめの一歩」を覗いていこうというもの。
読んでくださる方の、より自分らしい明日や未来を迎えるための
少しの勇気とヒントにつながりますように。

 

埼玉県・北本市のクッキー専門店「クッキークル」を営む
尾上由子(おのうえなおこ)さんへのインタビューも、
今回でいよいよ最終回です。
(前回までのお話は、こちらからご覧ください。)

 

尾上さんが工房をオープンしたのは2010年のことでした。
週に一度工房での販売も行いながら、ネットショップをメインに運営。
さらに2015年には場所を移転し、現在の実店舗を構えます。

その間人気ショップとのコラボレーションやイベントへの出展なども増え、
着々とステップアップしていったのかと思いきや・・・
本当の意味で「お店がいい状態になった」と言えるのは、
ここ最近のことなのだとか。

「最初の10年は、いかにも『素人が始めた感じのお店』という状態。
周囲からの見られ方とは裏腹に、不安定さを孕んでいました。
客数は着々と増えているのに、経費や人件費も増して、利益が比例しない。
さらに私自身自分はといえば、人を許すことができない、最悪の店主だったんです」。

え~、意外!!
目の前にいる尾上さんは、お顔からこぼれんばかりの笑顔が印象的。
小さいことは気にしないような、ダイナミックで快活なイメージなのに・・・。

「特に工房が立ち上がったばかりのころは、
ミスする、体調を崩す、思い通りにいかない…
自分に対してもスタッフに対してもそういうすべてが許せなかった。
面と向かって『いい加減にしてよ!』って言い放ってましたからね。

楽しむ余裕もなくただただ必死で、
普通に考えたら辞めた方がいいような状態でした。
とはいえ、いざ辞めて『やっぱりね、趣味で始めたし仕方ないよ』と言われたくない。
そんな意地と共に、
お客さんがわざわざ手間をかけて買って『おいしい』と喜んでくれる、
趣味では味わえない幸福な気持ちを手放したくないというのもあったんです。

お金という面でも、
独学で道を歩んできたというコンプレックスから解放されたいという面でも―
一生懸命になりすぎて独りよがりになっていたんでしょうね」。

 

お話を聞く限り、ずいぶん長い間その“独学コンプレックス”と戦いながら、
お店の経営にも悪戦苦闘していた様子。
ところが、今はメンタルもお店の状態も、ぐんと安定したのだといいます。
何か転機があったのでしょうか?

「自分自身のコンディションも周りとの関係も決して良くない、
そんな状態が続いていた時、お店の関係者からこういわれました。
『あなたは、自分のことしか考えていないよね』って―。

元々、自分でも薄々気づいていたことではあったんです。
でもそれを外側から真正面から突き付けられて・・・
ググッと考えざるを得なかった。

そうして改めて自分の在り方を見つめて感じたのは、
組織でクッキーを作って
お客様にお金を頂くことでやっているのに、
判断も感情も、すべて自分軸。
『自己実現』を目指した結果、
メンタルも人間関係も経営もとても良いとは言えない状態になっている―。
初めて『自分のためと思ってやっていることが、自分を苦しめている』と
気がついたんです。

そこからグルグルと悩みに悩んだのですが・・・
最後には『もういいや!』って考え方をガラリと変えることにしました。
『自分の満足のためにクッキーを作るのはもうやめよう。
自分の中にあるイメージやスキルといったすべてを、
お客さんを100%満足させるために使おう』って腹を括ったんです」。

 

私たちは「何者かになりたい」と願う時、
行き場のない不安や、漠然とした焦りに襲われるものです。
そんなとき、自分の姿を少し遠目に見つめてみると・・・
“私が”描く筋書き通りに事を進めたい。
“私が”ここにいることに気づいてほしい。
—と、“私”にばかり矢印を向けていることに気づくのではないでしょうか?

そのエネルギーを“今の私に何ができるか”という部分と重ねて、
外側に向けて発するパワーへと転換してみる―。
すると、心に抱えた荷物はふっと軽くなり、
周囲へ大きな化学変化を起こすことさえもできるのかもしれません。

 

こうして、矢印を内側から外側へとクルッと回転させた尾上さん。
“自分を証明するための手段”となりつつあったクッキーを、
“周囲の人々と喜びをわかちあうための手段”に置き換えたときから、
周りに広がる世界ががらりと変わったのだといいます。

「お客様が100%喜んでくれるものを、という気持ちでクッキーを作ったら、
それまでとは比べ物にならないくらいほどの幸福感に満たされたんです。

スタッフとのやりとりも“私の自己実現”のためではなく、
“お店のためのコミュニケーション”に変わりました。
もしそこに意見の相違や指摘があったとしても、
その矢は私に向けられたものではなく、お店の在り方に対してのもの。
そうしたら、自分自身も傷つかないし、方向性を見失わずに決められる。
金銭面でもいい結果として反映されるようになりました」。

ようやく手にした新たな基準と引き換えに、
長きにわたって戦ってきた自身のコンプレックスを手放した尾上さん。
まさにこのタイミングが、
尾上さんが「本当の意味でのプロ」になった瞬間といえるのでしょう。

 

最後に、「この先、どんな未来を描いているんですか?」と尋ねてみると・・・
一皮むけてプロとしてのお菓子作りの楽しみ方を手に入れた
尾上さんらしい答えが返ってきました。

「実は・・・クルのクッキーを、災害に備えた “常備食”にしたいと思っているんです。

工房をオープンした直後に東日本大震災がありましたが、
そういうときこそ自分のクッキーが一つの心の支えてあってほしいと思いながらも、
なにもできなかったことを、とてももどかしく思いました。

誰かが被災しているのに、そこまでお届けができない。
あるいは私自身が被災して、作れない。
―そういう非常時にも召し上がってもらえるように、
目指すは無添加で、長期保存できるようなクッキーを作って、
仕組みも含めて整えたいと試行錯誤し始めています」。

緊急時に“あってもなくてもいいもの”とされがちな嗜好品であるクッキーを、
非常事態に貢献するステージに引き上げようとする姿—。
それはまさに、自分に向けていた矢印をクルッとひっくり返したからこそ生まれた
『プロとしての目線とアイデア』そのものでした。

 

やっと見つけた「好き」を仕事にしたい。
いま手にしている「好き」を通して、私を認めてほしい。
そう願う人は、少なくないことでしょう。

けれど、その思いが強いほどに、私たちは「自分」ばかりを見つめてしまいがちです。
まるで、クッキーを焼くことで自分の輪郭を証明しようと躍起になっていた、
かつての尾上さんのように―。

けれど、クッキーを焼くのは誰かに手渡すため。
必死に手元ばかりを見つめていた顔を上げ、
手渡す相手の顔に視線を広げることができたとき、
尾上さんの世界はグルリとひっくり返りました。

私はこれまで「誰かを幸せにする」仕事ということは
「自分がガマンする」ことと重なり合っているとばかり思っていました。
だからこそ、果たしてその道の先が「なりたい姿」や「自分の幸せ」につながっているのか、
どこか不安でしたが―。

「自分だけ」でも「相手だけ」でもなく、
自分の好きを手渡して「相手と一緒に」幸せになるという方法がある。
そして、その方が、ずっと嬉しい・・・。
そんなことを、尾上さんは身をもって教えてくれた気がします。


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