「否定されるがを恐れない。記者の鉄則や!」 朝ドラに見る「正しさ」と「間違い」。

ヤマゴボウの実を見つけました。
ぷっくりとした紫色になると、秋がやってきます。
まだまだこれから夏が始まるのだけれど、
自然界はもう秋の準備が少しずつ始まっているのですね〜。

この時期ウォーキングで30分歩くと、帰って来る頃には汗だくです。
その後、ストレッチや腹筋やスクワットをすると滝のような汗。
シャワーを浴びてすっきりしてから、
掃除に取り掛かります。

暑いけれど、このルーティンで1日の始まりのエンジンがかかります。
パソコンの前に座ると、若い頃はウダウダして、なかなか書き始められなかったけれど、
今は、すぐにパチパチと筆が走り始めます。
どうやら先に体のエンジンをかけた方が、頭のスタートは早くなるよう。

さて……。
ここ数日の朝ドラ「あんぱん」は、高知新報という新聞社が舞台になっています。
同じ出版業界の端っこにいる身としては、
ひとつひとつの言葉が、胸の奥にきりきりと差し込んでくるようでした。

戦時中は、士気を高めるような記事をさんざん書いておきながら、
戦後になると、そんなこと忘れたかのように、世の中の動きを追う……。
価値観ががらりとひっくり帰ったとき、
かつてやってきたことに、みんなが罪悪感を持ちます。

のぶさんも、教師として、「間違ったことをたくさん教えてきました。
そんなことをなかったことのようにして、
私が人の心を打つ記事を書けるのかどうか……」と。

それに対して語る、上司の東海林さんの言葉が胸に刺さりまました。

「否定されるがを恐れない。記者の鉄則や」

これって本当難しい……。
人はどうしても間違えるものです。
とんでもないことを書いたり、言ってしまうことがあるかもしれない。

でも、それを怖がっていたら、
心の底から思ったことを、人伝えようとは思えなくなります。

のぶさんはこうも言いました。
「記者は、どこまでいっても世の中に、問い続けるしかないがではないでしょうか?」

正しいか、正しくないか。
間違えるか、間違えないか。

もしかしたら、それは人間に与えられた力の外側にあるものなのかもしれません。

何が正しいかは、時代によってくるくる変わります。
それが正しいとわかるのは、時代が過ぎ去ってから……。

だとすれば、人間ができることは、
目の前のことに真摯に向き合い、そこで感じたこと、考えたことを掬い上げ
「私はこう思うんだけれど、あなたは?」
と問いかけることだけなのかも……。

今回、「おへそ」の取材で、大学院で勉強中という方を取材させていただきました。
論文を書くということが、どういうことなのか、
そこで初めて教えていただきました。

調査をしたり、文献を調べたり、インタビューをしたり。
そんな事実を積み上げて、仮説を立てて、分析する。
その結果を発表するのが論文。
その論文は、「知」の世界の中の、ひとつの「点」になるそうです。

つまり、自分がすべてをわかるわけじゃない、ってこと。
人類は、みんなで協力して、膨大な「知の世界」の中で、
自分ができる「点」を打つ。

すると、それに続く人が、その「点」を参考にしながら、
また別の「点」を打つ。

学術の世界って、そういうことなんだ、
と衝撃を受けました。

ノーベル賞の授賞式などを見ていると、
「ぶっちぎりの発見をした人が勝者」
みたいに思っていたけれど、
それも、先人の蓄積の上にある発見で、
人は時代を超え、ジャンルを超え、みんなで「知の世界」を構築していくそうです。

誰かの考えてくれた足跡を元に、
でも、そこにまったく新しい自分の「点」を打つ。
そのためにも必要なことが、「否定されることを恐れない視点」なのかも。

自分がやっていることが、正しいかどうかなんてわからない……
という無力感に押しつぶされそうになりながら、
それでも……と
目の前にあるものに向き合って、「私はこう思う」と言葉に出す。
それって、とっても尊いことだよなあと思いました。

それは、「書く」という仕事でなくても、
子供達に「おかあさんはこう思う」と言うことでもそうだし、
会社で「この企画はこのやり方がいいと思う」と提案することでもそうかもしれません。

私の意見なんて、ゴマ粒ほどの小さな小さな「点」にしかならない。
でも、なんにもしないでやり過ごすより、
小さな「点」を打ってみたら、
なにかが動き出すのかも。

そんなことを考えながら、朝ドラを見るこのごろです。

みなさんなら、どんな「点」を打つでしょうか?

今日もいい1日を。


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