歳をとったって「できること」はある。と母の後ろ姿が語る

関西では、穏やかな天気だった元旦。
みなさま、どんな新年をお迎えですか?

私は、昨日はおせちをつまみ、ニューイヤー駅伝などを見ながら
両親と共にのんびり過ごしました。

「ちょっとこれ取って」
「ちょっとこれ運んで」。
母は、なるべく人に迷惑をかけないように、なんでも自分でやってしまう人ですが、
やはり、ここ数年できないことが増えて、
いろんなことを頼まれるようになりました。

その度に、ああ、こんなことがつらいのね……。
私が帰った後はどうするのだろう?
と胸がつぶれる思いがします。

そのひとつが、花の水換え。
大きめの花瓶に水をいれ、花を生けると
それを持ち上げるだけで、相当な力がいります。
お正月は、玄関とお仏壇の前に花を飾りますが、
その水を変える度に、私が運びます。

いつも玄関に花を絶やさなかった母ですが、
ここ最近は、この水換えができなくなって、
普段の日には、飾らなくなってしまったそうです。

その他にも、お節用の重箱やお屠蘇のセットなどは、
1年に1度しか使わないので、
押入れの天袋や、キッチンの吊り戸棚の高いところにしまわれていたりします。
それを取り出すには、椅子を運んできて、そこにのって、手を伸ばさなくてはいけません。
「のりこ〜、あれ取って〜」
と言われて手伝いますが、
年老いた父や母が、この作業をすると思うと
もし滑り落ちたら……と気が気ではありません。
ちゃんとしまうところまで、やってから帰ろう!と思っています。

でも、「できなくなった」ことばかりではないのです。

今回実家に戻って、改めて知ったのは
両親とも、テレビのニュースやドキュメンタリー番組、
識者が出演する討論番組みたいなものが好き、ということでした。

私はもっと面白おかしい番組が見たいと思うのに、
夜になると、ふたりでNHKの特番をじ〜っと見ていたりします。


昨夜見ていたのは「混迷の世紀2023巻頭言 世界の知の巨人たちが読み解く
人類の未来は果たして平和と秩序をこの手に取り戻せるか」
という番組でした。

「こんな番組好きやね〜」と母に言うと……。
ちょうど、ウクライナの問題を取り上げていて、
「なんとか、戦争をやめる方法がないか、それが知れたらいいなあと思って」
と母。

ほ〜〜、と思いました。
私なんて、どこかに「人ごと」という思いがあるのかもしれないのに、
母は、真剣に戦争をやめるために「できること」を探していた……。
そのことに、思わず感動してしまったのです。

体が動かず、重いものを持ち上げられず、すぐに疲れて眠くなって横になり……。
そうやって自分が「できないこと」がどんどんでてくるのに、
世界のために人類が「できること」へ思いを馳せる……。

人は、こんな風に「できること」を探すことができるんだ!
と母の後ろ姿が教えてくれたようでした。

実際に体を動かし、目に見えるかたちで何かを生み出すことは
できなくなってくるけれど、
誰かのことを心配したり、「頑張って」と応援したり、
テレビの向こうの人に心を重ねたり……。
それは、なんの成果にもつながらないかもしれないけれど、
人に「できること」って、たくさんある。
そんな「できること」を大事にしたいなあと思いました。

私ができること、できないこと、
を考えるとき、
つい「結果が出ること」「出ないこと」と結びつけて考えてしまうけれど、
なんの変化も起こらなかったとしても、
そこに「できること」はきっとある……。

「できる」「できない」の境界線って、見た目だけでは決まらないのかも。
電車の中で「ああ、あのお母さん大変そうだなあ」とこっそりエールを送ったり
散歩途中に「ああ、あのおばあさん、今日も元気そうでよかった」とにっこりしたり。
そんな日常の小さな「できる」を大切にしたいもの。
いくつになっても両親から学ぶことは大きいものですね。

みなさま、今日もいい1日を!


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