鉛筆を持ちながら本を読む

木々が葉っぱを落とし、いろいろな実が色づいてきました。
多少のずれはあるものの、毎年必ず同じ営みを繰り返している……。
そんな確かさがあるから、人間は自然のそばにいると、安心するのかもしません。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

私は本を読むとき、「これは完全保存版だな」と思ったら、鉛筆を持ち出してきます。
そして、いいなと思ったフレーズに線をひきながら読みます。

最近、鉛筆を握りしめながら、「ああ、なんていい本だろう……」と
読んだのがこちら。

以前「暮らしのおへそ vol28」でもご紹介させていただいた東畑開人さんの
聞く技術、聞いてもらう技術」でした。

「まえがき」には、「聞く」と「聴く」という使い分けが書いてありました。
ああ、「聴く」っていう方が大事、って話よね……と思いながら読んでいるとこれが大違い!

この違いを東畑さんはこう書いていらっしゃいます。

「聞く」は語られている言葉通りに受け止めること、
「聴く」は語られていることの裏にある気持ちに触れること。

その上で、こう書いていらっしゃるのです。

どう考えたって、「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい。

どうしてかと言うと……。

 つまり、「なんでちゃんとキいてくれないの?」とか「ちょっとはキいてくれよ!」と言われるとき、求められているのは「聴く」ではなく「聞く」なのです。
そのとき、相手は心の奥底にある気持ちを知ってほしいのではなく、ちゃんと言葉にしているものだから、とりあえずそれだけでも受け取ってほしいと願っています。
 言っていることを真に受けてほしい。それが「ちゃんと聞いて」という訴えの内実です。

は〜!!なるほど〜!と思いました。
でも、世の中では、話を聞くことができずに困っている人たちと、話を聞いてもらえずに苦しんでいる人たちが、とても多い……。
「聞く」の不全と「聞く」の回復。がこの本のテーマです。

そして、問題はここにある、と東畑さんは綴っています。

「聞く」が不全に陥るとき、実際のところ、僕らは聞かなきゃいけないと思っているし、聞こうとも思っています。
それなのに、心が狭まり、耳が塞がれてしまって、聞くことができなくなる。自分ではどうしようもできなくなってしまう。これこそが、問題の核心です。

そして………。
続く3行に私はしばし呆然としてしまいました。

ならばどうしたらいいか?
結論から言いましょう。
聞いてもらう、からはじめよう。


そっか……。
心が狭まり、耳が塞がれてしまい、どうしようもないとき、
誰かに聞いてもらえばいいんだ……。

それは、とてもやさしい、ほっとする言葉でした。
私、人に話聞いてもらっていいんだって……。

実は、これがとても苦手なのも事実です。
どうしても「自分でちゃんとしなくちゃ」と思ってしまう……。
でも、東畑さんはこう言われます。

あなたが話を聞けないのは、あなたの話を聞いてもらっていないからです。心が追い詰められ、脅かされているときには、僕らは人の話を聞けません。
ですから、聞いてもらう必要がある。
話を聞けなくなっているには事情があること、耳を塞ぎたくなるだけのさまざまな経緯があったこと、あなたにはあなたのストーリーがあったこと。
そういうことを聞いてもらえたときにのみ、僕らの心に他社のストーリーを置いておくためのスペースが生まれます。
「聞く」の回復とはそういうことです。


ああ、私は誰かに話を聞いてもらおう。
「悪いから」なんて言わずに、「ねえねえ」とちょっと声をかけてみよう。
そうやって、自分の心がちょっと軽くなったら、
私は、誰かの話を聞けるようになるかもしれないから……。
と思いました。

鉛筆で線をひきながら、すべての言葉が自分の中に染み込んでいくのを感じながら読了し、
ああ、私もこんな本を書ける人になりたい……と思いました。
とてもじゃないけれど、東畑さんのように、なんて書けるわけないけれど、
こんなにも一文一文が、力となり、明日の役に立つ……。
売れるため、とかではなく、私もこうやって、どこかの誰かのお役に立てる文章が
書けるようになりたいと思った1冊でした。

ここに挙げた以外にも、素晴らしい言葉、考えがぎゅっと詰まっています。
ぜひ、みなさんにも読んでいただけたらなあと思います。

みなさま、今日もいい1日を。


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