実家のご飯が食べたいなあ。「料理と利他」を読みました。

今日はまたぐっと寒くなりましたね。
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

寒い日はシチューが食べたくなります。
上の写真は、2年ほど前の私の実家の晩ご飯。
母がデミグラスソースから作る、自慢のシチューです。
白いご飯と合わせるのが、実家っぽい!笑
ほたての貝柱を甘辛く炊いたものと、にんじんのサラダ。
洋風のメニューでも、必ず甘辛味の和風のおかずがつきます。

2か月に一度は、仕事のついでに実家に泊まっていたのに、
母のご飯を食べなくなって、約1年がたちます。
最近は、ビデオ電話で話したり、
外に出かけなくてもいいよう、両親が好きそうなお菓子を送ったり。

ご機嫌に過ごしてくれていることがなによりありがたいです。

さて……。

ライターの和田紀子さんに教えてもらって、
「料理と利他」(ミシマ社)という本を読みました。

 

料理研究家の土井善晴さんと、政治学者の中島岳志さんが、
京都の出版社「ミシマ社」のオンラインイベントで対談した内容を
まとめた1冊です。

 

いや〜、おもしろかったなあ〜!

スイスやフランスで、フランス料理を学び、
帰国後は大阪の老舗料理店「味吉兆」で修行していた土井さん。
プロの料理人を目指していたのに、料理学校を立ち上げたお父様の土井勝さんに
「家庭料理の料理学校を継ぎなさい」ち言われ
「なんで、家庭料理やねん」と思った……。

そんな時に京都の河井寛次郎記念館に行ったら、
そこに非常に心地良くて美しい空間があったそうです。

「美しいものは追いかけても逃げていく。
でも、淡々と真面目に仕事すること、
自分が生活をするということで、
美しいものはあとからついてくるんじゃないか」

そして「家庭料理もそれを同じだなと思ったのです」と土井さん。

「たとえば、ここにお料理をぽんと置きますでしょ。
お料理をおいたら、盛り付けが終わったら、
そこに人間が残ったらいけないんです。
人間は消えてなくならないといけない。
はからいを作為と考えると、作為というつくり手の自我が残っていたら、
気持ち悪くて食べられないと思いませんか?」

 

この言葉にう〜んと唸ってしまいました。
だったら、私はどいういう気持ちで、文章を書いていけばいんだろう……って。

人はどうしても、自分が何かを成し遂げたら、
「私がやったぞ!」と言いたくなります。
私なら「この文章は私が書きました!」と言いたくなる……。

でも確かに、自分が感動したことを、誰かとシェアしたい時、
自分の思いが強すぎると、伝えたいことが伝わりません。

「私が」感動したことではなく、
「どうして」感動したか。
その理由の中に、「真実」を見つけた時、
初めて人に手渡せる、普遍的な事実になる……。
やっぱり、伝える文章を書くときにも、自分を消す作業が必要なんだな、
と改めて考えました。

そして、土井さんは、こうも語っていらっしゃいました。

「なにか、自分に取り柄があるとしたら、
あんまり昨日の自分に頼らないで、
今日初めて料理するんじゃないかという気分で、いつも臨むところですかね。(中略)

それは力みではなく、なんかお芋が気持ちよさそうにしているなあ、というようなものです。
強引に「はやく柔らかくなれ」と思って火を強めても、
おいしくなるどころか崩れてなくなってしまう」
(中略)

「もうあとは自然にお任せっていう、
自分の力ではどうにもならないっていうところを、
もう最初から諦めているんですね。
ああ、もうこんでいいわと」。

私たちは、つい「やりがい」や「生きがい」を求めがちだけれど、
それは、自分の力でつくることはできない……。

「なんかお芋が気持ちよさそうにしているなあ」
と、緩やかな気持ちで、でも透き通った気持ちで、
あたりを見渡せる人になれたら……と思います。

利他ってなんだろう?
「自分を離れる」ってどういうことだろう?
とちょっと考えてみようと思っています。

今日もいい1日を!

 

 

 


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