
夏の間、暑さのために花をほとんど見かけなかったのに
秋になると、ちらほら可憐な姿が見え隠れするようになりました。
これは、椿なのかな? サザンカなのかな?
みなさま、いかがお過ごしでしょうか?
18日(土)に、「外の音会」を開催しました。
ご参加くださったみなさま、ありがとうございました。
読んだ本のこと、参加したセミナーで感じたこと、最近使っていいと思った台所道具などなど……。
いろんな「外で聞いた音色」についてお話しをし、
みなさん、熱心に聞いてくださって嬉しかったなあ〜。
アンケートをお願いしていたのですが、
みなさんとても熱心に書いてくださり、ひとりで読んでは胸を熱くしておりました。
さて……。
何者かにならなくても、どこかへ行かなくても、今のままの自分で明日が変わる。
その力となる「書く」という習慣について綴るコンテンツ「書く暮らし」。
今日は「自分のことを書く」ということについて書いてみようかと思います。
私は長年ライターとして仕事をしてきたので、
「自分のこと」を書くことはほとんどありませんでした。
インテリア雑誌で、いろんなお宅を取材して、そこで暮らしている人のことを書く。
「片付け特集」で、収納のノウハウを書く。
料理のページで作り方を書く。
インタビューで話を聞いて書く。
そんな雑誌の記事は「誰が」書いているかは関係ありません。
ライターはあくまで黒子で、
自分の意見や感想を書くことはありません。
ず〜っとそうやって書いてきたからか、
いざ、「自分のエッセイを書く」となった時、なかなか「自分」を出すことができませんでした。

忘れられない苦い思い出があります。
とある出版社でエッセイを書かせていただいた時、担当の編集者に ダメ出しを喰らいました。
「一田さん、取材ではなく、分析で書いてください」って。
「取材」とは、見たり、お話を聞いたりしたことを、事実として書くことです。
それに対して「分析」とは、自分の目で見て、それが何なのか、どういう意味を持つのか
と考え、分析して、自分の言葉にすることです。
たとえば、取材をしてそのお宅のどこが素晴らしかったのか、
そこに暮らす人がどういう思いで部屋作りをしているのか、
を書くことはできるけれど、
じゃあ、その家がどうして素晴らしいのか?
その家ならではの個性は何なのか?
そのインテリアが、そこに暮らす人の想いをどう映し出しているのか?
などは、自分で考え、導き出さなくてはいけません。
しかも……。
その分析があっているかどうかはわからないのです。
もしかしたら間違えているかもしれないし。
私の考えなんて、しょ〜もないかもしれないし。
そう考えると、怖くて、自分の分析なんてとても書く勇気が持てませんでした。
それでも、少しずつ、少しずつ
「私はこう思う」
「これは、こういうことではないかと考えた」
と自分の意見を綴っているうちに、わかってきました。
「自分のことを書く」って、腹をくくるってことなんだって……。

正しいか、正しくないかを考え始めたら、
永遠に自分の意見なんて、おこがましくて書くことはできません。
でも、誰かに会って、その人から教えてもらった一言に
「ああ、そうか……」と刺激をもらい、
私の心がブルンと震えて、エンジンがかかったことは、
嘘のない事実なのです。
「私が考えたこと」「感じたこと」は、私自身が「それが正解」だと決めていい。
そう言い聞かせながら書き続けてきた気がします。
そして、もしそれが間違えていたら、
書いた後に、再び考え、違うところをまた書けばいい。
でも、書かずに黙って持ち続けるだけでは、
それが「間違い」だということさえ気づかないのです。
「これ」が真実なのかどうか、自信がなくて、外に出すのは怖いけれど、
エイッと腹を括って出す。
そのヒリヒリとした思いが、「書く」」には含まれているんだろうなあと思います。
きっと曲を作る人も、絵を描く人も
「これでいいのかな?」と悩みながら、エイッと出しているんじゃないかなあ。

「怖さ」や「不安」と隣り合わせだからこそ、
その文章を誰かが読んでくださって、
「そうそう、私もそう感じていました〜」と言ってくださったら
たまらなく嬉しい!
自分の弱さを引きずっているからこそ、
それを認めてもらえた時、
自分を丸ごと受け止めてもらえる気がするのかも。
そんな文章を通した交信が、
私が怖くても、書き続けている理由なのかもしれないなあと思います。