日常を分解するということ

定点観測している柿の実が少しずつ色づいてきました。
早く秋にならないかなあ〜。

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?

 

暮らしの中に「書く」という時間を取り入れれば、
「わからない」を「わかる」にひっくり返す快感を味わえるはず。
そんな「書くこと」について綴るこのコンテンツ「書く暮らし」。
前回は、日々起こったことを、一旦自分の外に出してみる。
ということについて書いてみました。

さて、今回は……。
誰のために書くのか?というお話を少し。

もちろん、自分のために書くのだけれど、
自分のためだけに書いていては、誰にも何にも伝わらない文章になってしまいます。

自分が体験したことを、事細かく熱く書き綴っても、
自分は気持ちいいかもしれないけれど、
読み手は、最初の数行だけ読んで、読み続ける気がしなくなってしまいます。

かつて林真理子さんがそのエッセイの中で
「最近では、いろんな人が自分の思いを書いているけれど、
残念ながら、誰もあなたのことなんて知りたいとは思っていない」と書いていらっしゃって、
衝撃を受けたのを覚えています。

だったら、みんな何を知りたくて読んでいるのか……。
読む人はみんな「自分のこと」を知りたいと思って読んでいます。

今、平野啓一郎さんの「文学は何の役に立つのか?」(岩波書店)という本を読んでいます。

そこにこんなふうに書いてありました。

「僕たちは(中略)自分の問題を誰よりもよく知っているにもかかわらず、
なかなか自分自身では解決できません。
クラスで孤立していることなんか百も承知しているのに受け止められない。
それを小説や他人の人生を経由すると、
改めて意識し直したり、共感によって孤独や和らげられるということがあります」

こういうこと、あるある〜!と思いました。
その小説の登場人物が考え、悩み、感じ、行動するプロセスを追いながら
「そうなんだよ。私もそう感じていたんだよ!」
と言いたくなります。

小説とエッセイは少し違うかもしれないけれど、
他人の書いた文章を読むことで、「そうそう、私もそう思う!」
と感じることは、
もやもやとしていた目の前の霧が急に晴れたような、
清々しさを運んできてくれます。

そんなふうに私は書いていきたい……。

そのために必要なことは、
自分の体験を、それがいったいどういうことだったのか、細かく分解して分析し、
再度構築しなおすこと。

夫のタオルのたたみ方が違うとイライラするのはなぜだろう?

4つ折りじゃなくて、3つ折りにしてほしい。

そうこだわりのは、私だけなのかもしれない。

そうじゃなきゃいけない、という思い込みは、
そうでなくてもいいのかもしれない……。

みたいな感じです。

すると、このプロセスを読んでくれた人は、
「そうそう、私もそうじゃなきゃいけないという思い込みしてるかも」
「私にも、『そうでなくてもいいのかもしれない』ことがあるかもしれない」
と自分ごととして読んでくれます。

つまり、日常生活の中の「事実」を分解し、分析して言語化することで、
その「事実」の上にある「真実」が見えてきます。
「事実」は個人の体験だけれど、
「真実」まで格上げすると、個の匂いが消えて、
誰かに手渡せる形になります。

この「真実」を見つけ出すことこそ、「書く」ことの楽しみなんだよなあといつも思います。

そして、誰かに手たわせる形になった「真実」は、
実は自分にも手渡すことができます。

なんとなく喜んだり、怒ったり、イライラしたり……。
その日々の営みは、いったい自分にとってどういうことなのか?
そう考え、分析する、というプロセスは、
自分の思考を整理し、理解するということでもあるから……。

目の前で起こることは、なかなか分解できません。
ネジをはずして、ひとつずつ組み合わせをほどき、
その奥にはまっている芯を取り除いて……。
自分の心に起こったことを、バラバラにしてみて、
「は〜!なるほど〜!こういうことだったのね」
とわかる瞬間は、何者にも変え難い快感です!

そんな快感を味わいたくて、私は文章を書いているのかも。

これは、長いエッセイを書くということではなく、
インスタやfacebookなど、SNSでのさりげない投稿にも言えることです。
3行ほどの文章を書くときだって、
今日、体験してきたことが、いったいなんだったんだろう?
と分解する作業はできる!

日常の解体から導き出される文章を、互いに交換しあえれば、
きっと自分ひとりでは見つけられない真実を、たくさん発見できるんじゃないかなあと思います。

みんなで分解掃除、やってみませんか〜?

 

今日もいい1日を

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