子供を残して深夜まで仕事を。西村家の失われた9年。  西村美津子さん Vol2

 

img_2711

50歳をすぎて家族を解散! 3人の子供を残して独立し、
京都の町屋で暮らし始めた西村美津子さんにお話を伺っています。

 

Vol1では、京都で町屋を借りるまでのお話を伺いました。

 

実は西村さん、OLを経て23歳で結婚し、30歳までは専業主婦だったそうです。

「当時は子育てに全エネルギーを注いでいました。
当時、長男の口癖が『お母さん、ごめんなさい』だったんですよ。
相当怖いお母さんだったみたいですね。
『お母さん、ごめんなさい』って言ってから何かを始める……。
このままでは子供をダメにするなって思ったんです。
3人目の次男は、心臓に病気があって、長男と長女を家に置いて、
病院に付き添っていました。生まれて1週間で入院して、3歳の時に心臓の手術をしました。
それまで、上の子供たちにすごく厳しく接していたのですが、
次男にかかりきりに。
そうしたら、上の2人がすごく伸び伸びして(笑)。
『お母さん、俺たち別に大丈夫だから』なんて言うんですよ」

 

今まで一生懸命子育てをしてきたのに、
もしかしたら、それが子供にとって重荷になっていたのかもしれない。
そう認めることができたのが、西村さんのすごいところ。
大抵のお母さんは、その切り替えがなかなかできないものだと思うから……。

そして、この病院通いでも、またまた西村さんのスイッチがオンになりました。

img_2738

 

「入院に付き添っていた時に、いろいろなお母さんに出会ったんです。
重たい病気の子供たちが入院する病院だったので、
そこでは、お母さんも助けを求めていました。
知り合ったお母さんたちは、みんな心が疲弊して、誰にも助けてもらえなくて、
アップアップしていました。
それで、『これから私は、人を助けるために生きよう!』と思ったんです。
自分が周りの人にすごく助けてもらって、幸い子供の病も完治しましたから。
その時は、看護師になろうかなと思ったんですが、
待てよ、これから学校に行かなくても、私は栄養士の資格を持っているじゃない!
って気がついたんですよ。

母の勧めで短大に行って栄養学を学んでいました。
当時はなりたいものなんてなにもなくて、卒業後も栄養士になる気なんてさらさらなくて、
毎日が楽しければそれでいい、って思っていました。
子供を産んで、自分も育ったんだなあって思いますね」

img_3012

 

 

こうして、近くの病院で栄養士として働き始めました。
患者さんの食事の献立を立て、栄養計算をして、それを調理師さんに作ってもらう。
そのための材料を人数分計算して、注文して……。

最初から仕事はこなせたのですか?ときいてみると。

 

「いえいえ、全然!
イチから教えてもらいました。
病気に合わせて一週間分の食事を、このカロリーで、たんぱく質は何グラムと、決まった数字が
あるんです。
もうパズルみたいで! 白い野菜は何グラム、緑黄色野菜は何グラム、と治療に必要な
絵栄養素を考えていくんです。
試作して、調理師さんにつくり方や盛り付けをお願いして。
大変だったけれど、楽しかったですよ」

 

img_2726

2年弱働いたのち、本格的に栄養士として仕事をしていくことを心に決めました。
自分で病院や福祉施設に電話をして「今、栄養士募集していませんか?」と聞いて回った
と言いますから、そのゲリラ作戦には驚きです。

 

こうして特別養護老人ホームに就職。
同時に管理栄養士を目指して勉強を始めました。
栄養士から管理栄養士になろうとして合格するのは、当時わずか10%と言う狭き門だったそう。

「子供3人を9時に寝かしつけて、夜中の0時に目覚ましをかけて、
そこから起きて3時まで勉強して、3時間だけ寝るんです。
それで6時に起きて、学校に行かせて、保育園に送って。
それを半年間続けました。
一発で受かった時には嬉しかったですね〜」

 

なんとなんと!
「これやりたい!」と始める人は多いけれど、
実際にその目的のために、日々やらなければいけないことを考えて
毎日コツコツ勉強する。
そんな本物の実行力を持てる人は、少ないように思います。
スイッチが入ったら、全てを本当にしてしまう!
だからこそ、西村さんは自分の人生の中にある
もう一つの扉を開けることができたのかもしれません。

 

img_2931

 

この特別養護老人ホームでは、合計9年間働きました。

『家族にとっては『失われた9年』ですよね(笑)
今まで子育て一直線だったのに、いきなりパンって仕事にシフトして…….
管理栄養士に受かったと思ったら、課長になって、
帰ってくるのが、ひどい時には夜中の1時とか2時とか。
そのころはまだ夫がいたので、子供の食事を何か買ってきてもらったり、
自分が一度帰って何か食べさせてから、また仕事に戻ったり。
もうガムシャラでしたね。
でもね、子供ってすごいんです。
ご飯の炊き方なんかもすぐに覚えてくれて、自分たちだけで食べられるようになっていました。
その代わり、夏休みが取れたら、全員を車に乗せて、川遊びに行ったり、アスレチックに行ったり」

 

どんな時にも全力投球。
西村さんの一途さに、なんだか胸が熱くなりました。
そして、ひとつ確かな事は、どんな時にも西村さんのパワーの源には、
「誰かのため」という思いがあったこと。

 

子供が生まれて、「この子たちをしっかり育てたい」と思うのも、
病院で出会ったお母さんたちの様子を見て、
誰かの役に立ちたい、と願うのも
きっと根っこは繋がっていたのだと思います。

だからこそ、あの「失われた9年」の中にいた子供たちも
お母さんの愛情をちゃんと感じられたのに違いありません。

 

 

西村さんの仕事のキャリアには、まだまだ続きがあります。
そのお話はまた次回に。

 

 

写真/近藤沙菜

 

 


特集・連載一覧へ