ライターズ・マルシェ

「4年間続いた家族2拠点生活。家族の形は色々あっていい」難波美帆さん Vol.3

「お母さんが、働くってどういうこと?」というテーマで
働くお母さんをインタビューさせていただいています。

私がかつて早稲田大学で一緒に仕事をし、
子育ての悩みなども聞いていただいた難波美帆先生。

難波先生は、大学一年生の娘さん(19歳)、高校二年生の息子さん(17歳)の
二人のお母さんでもあります。

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前回は、北海道大学の教員になり、
当時大学院生だったご主人と、
二人のお子さんを連れて北海道に移住するまでのお話でした。

移住したのは、北海道大学「科学技術コミュニケーター養成ユニット(CoSTEP)」
教育プログラムを立ち上げるためでした。

「新たに教員を採用したり、入試の問題を作るなど、ゼロからのスタートでしたが、
国に提出した計画に沿って形にしていきました。
このことが、後にプロジェクト・マネジメント
(プロジェクトの目標を定めて計画を立て、達成できるようコントロールすること)
の仕事に繋がっていきました。
今思えば、フリーランス時代、新しい雑誌を立ち上げる時に、
スタッフを集めて資金繰りを考えながら、表紙や中身を決めるなど、
プロジェクト・マネジメントのようなことは既にしていたと思います。
出版社にいた時も、書籍を作るのは一人編集長のようなもので、
一冊の本は一人が責任を持って作るんです。
3年間出版社にいたので、
書籍の作り方は分かるようになっていました」と語ります。

出版社という、全く違うジャンルでの経験が、
後のプロジェクト・マネジメントに繋がっていく…。

どんな経験も「自分」という串が同じなら、時を経れば
お団子のようにつながっていくもの。
経験と経験をいかに「自分のもの」=「おいしいお団子」にするかが
大事なのだと教えていただいた気がします。

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CoSTEPは無事にスタート。
難波先生は、北海道大学で2005年から2009年まで教員として活躍されました。
私が科学を文章で伝えるスキルを身につける“サイエンス・ライティング”を
学んだのもこの頃です。

ところで、北海道に移住した時、お子さんたちやご主人はどうしていたのでしょう。

「移住する前に保育所を探して2人とも入れることができましたが、
移住してからは CoSTEPを立ち上げるのに忙しく、
大学と家、保育所のトライアングルを行ったり来たり。
1年間はどこにも行けないくらい忙しかったです」と当時を振り返ります。

実はこの時、一緒に北海道に移住したご主人も北海道大学に採用され、
同じ職場で働くようになりました。

難波先生が旧姓でお仕事をされていたということもあり、
私はこの頃、お二人が夫婦だということに全く気づきませんでした!
実際、外では二人で話さないようにしていたそうです。
プライベートを大事にするため、家では全く仕事の話をしなかったとか。
ちなみに、ご主人は、市民と専門家が意見を交換したり、
意思決定をしたりする「市民参加の話し合い」を考えるプロフェッショナルです。

 

 

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話は戻すと、難波先生には CoSTEPでの任期が3年目を迎えたころに
東京にある日本の医療政策について調査や政策提言などをする非営利の組織から
プロジェクト・マネージャーとしてきてくれないかと声がかかりました。

難波先生は悩んだ末、その仕事を引き受けることを選択します。

その後も、科学技術の振興を目的としたJST(科学技術振興機構)
という文部省が所管する組織でプロジェクト・マネジメントを担当。

これまでの仕事が評価され、プロジェクト・マネジメントの仕事が求められるようになってきました。

その後、2010年には
早稲田大学の「サイエンス・メディア・センター」という
“中立的な立場で科学技術の専門家とジャーナリストの間を繋ぐ”活動をする組織へ。

例えば、仕事の一つに
“ニュースになりそうだ”と思われる科学情報について、
専門家からのコメントを集めて、
編集し、メディアに向けて発信。
食中毒や火山噴火など、扱う科学情報は幅広いものでした。
私もここで難波先生とお仕事をご一緒させていただきました。

 

難波先生は、このサイエンス・メディア・センターの立ち上げを任されました。
立ち上げた後も、全てのプロジェクトの進行を管理しながら、
メディアに向けて情報発信も。

「メディアから連絡を受けて、
取材に答えられる専門家を紹介したりしていました。
オーストラリアとイギリスにもある
サイエンス・メディア・センターと共同で仕事をしていたので、
時差を考えて真夜中や早朝にWeb会議をしていました。
大学の授業も週に4コマ持っていて。
その頃、小学生だった子供達の学校行事にもできる限り行っていましたし、
PTAでは広報の役員もしました」と当時のことを振り返ります。

何という八面六腑の活躍ぶりでしょう!
難波先生のタフさと、
クオリティを求められる仕事同時にいくつも抱えていたことに驚いてしまいました。

そしてその経験が、
後にビジネスを教える仕事に繋がっていったのかもしれない、と思いました。

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その頃、日本を揺るがす東日本大震災が起きました。

サイエンス・メディア・センターは、
昼夜を問わず専門家からのコメントを積極的に集め、発信し続けました。

「震災の時、誤った情報が出回ったりするなど、
報道のあり方について色々考えさせられました。

私は、結局、メディアは“当事者”ではないということについてずっと考え続けています。
誰が当事者で何を背負っているのか。
当事者でない人は何をするべきか、何をできないのか。
“当事者性”は私の仕事の中でずっと大きなテーマです」。

震災は、難波先生にとって働き方を考え直すきっかけにもなりました。

「震災があった時は、ちょうど小学校の下校時間でした。
当時、一緒に暮らしていた息子と全く連絡が取れずに気を揉みました。
あの日、東京で働いていて自宅に戻れなかったお母さんたちの中には、
仕事を辞める決意をした人も少なくありませんでした。
私も、このまま子供と離れて一緒に過ごす時間が減っていくことに
疑問を持ち始めたんです」と語ります。

実は、難波先生はこの頃、家族2拠点生活を送っていました。
上京した時、ご主人は札幌に残り、
難波先生は二人のお子さんを連れて
千葉にあるご実家の近くに家を借りて一緒に住むことに。

娘さんの方は、千葉の学校に馴染めず、
1年後に札幌に戻りご主人と暮らすことを選択しました。

「娘は、札幌に戻ったのち、中学生になるときに再び千葉の私の所にきました。
ところが震災があって、私が札幌に戻ることに決めたため、
来て1年でまた札幌に戻ることになりました。

今となっては、札幌と千葉を行ったり来たりさせて、
子供たちには可哀想なことをしたと思っています」。

結局、家族2拠点生活は約4年間続いたそうです。

千葉に住む難波先生は近くにいる祖父母のサポートがありましたが、
札幌のご主人は親類も近くにおらず、小学生の娘さんと2人の生活で、
出張を減らしたり、毎日夕飯の時間には帰宅したりと、
仕事との両立に苦労されたそうです。

それでも、どこに住むかはお子さんたちの意思も尊重していました。

そしてご主人は、難波先生に一度も帰ってこいとは言わず、
むしろ、「一度自分が上京すると決めたんだから、北海道には帰ってくるな」
とキッパリした態度だったとか。

もし、ご主人が「帰っておいで」と言っていたら、
今の難波先生はなかったかもしれません。

本当の意味で自分の決断に責任を持つということは、
こういうことなんだと、考えさせらえました。
誰もが決断後に、「こうじゃなかったのかも?」と悩みます。
でも、揺らぎながら、迷いながら、決めたことを貫き通す……。
時に悲しかったり、苦しくても
その思いが、自分の本当の軸を強く磨いてくれるのかもしれません。
そして、家族にも色々な形があっていいのだと感じました。

早稲田大学の任期が満了したのをきっかけに、
難波先生は今度は北海道に戻ることを決意します。

この次の話はまた次回に。

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